蔦重のもとに寓居していた?

歌麿と蔦重が、いつ、どこで、どのように出会い、仕事をともにするようになったのかは明らかではないが、歌麿は、天明元年(1781)に蔦重が刊行した黄表紙『身貌大通神略縁記』(みなりだいつうじんりゃくえんぎ/作者は歌麿と同門の志水燕十)の挿絵を任された。この時、「忍岡歌麿」と号している。
なお歌麿は、現在では「うたまろ」と読まれているが、当時は「うたまる」と読まれていたかもしれないという(湯浅淑子「歌麿の五十年」 浅野秀剛監修『別冊太陽 日本のこころ245 歌麿 決定版』所収)。
才能を見込んだ人材には、援助を惜しまない蔦重は、歌麿を生活面でも支えたようである。
前述の『浮世絵類考』には、歌麿が蔦重の元に寓居していたことが記されており、蔦重が日本橋通油町(中央区大伝馬町)に進出した天明3年(1783)頃から、寛政3年(1791)頃まで、歌麿は蔦重の元に寄寓していたといわれている。
出世作は虫の絵?

天明期(1781~1789)は、狂歌が大流行し、蔦重も、狂歌師のグループである「吉原連」に所属していた。
吉原連には歌麿も参加し、筆綾丸(ふでのあやまる)狂歌名で、狂歌を詠んだ。
狂歌とは、五七五七七の和歌の形式のなかに、世俗的な機知や滑稽を盛り込んで詠むものである。基本的にはその場で詠み捨てられ、記録を残さない。
そこで蔦重は、詠み捨てられた狂歌を「狂歌本」として刊行していった。
蔦重は、天明6年(1786)から狂歌本に絵を加えた「狂歌絵本」の出版を開始し、歌麿は絵画創作の中心的な役割を担った。
天明8年(1788)に出版された狂歌絵本『画本虫撰』(えほんむしえらみ)では、歌麿が虫にちなむ恋の狂歌に合わせて描いた虫と草花の絵が大評判となり、歌麿の出世作となっている。
狂歌絵本を通じて、浮世絵師としての歌麿の名は高まった。
狂歌絵本で成功を収めた蔦重と歌麿は、美人画へと進出していく。