新聞業界は自らの失敗を棚に上げていないか?
批判の目は放送事業者だけではなく、デジタル化が遅れる新聞業界にも向けられるべきかもしれない。
NHKはこの間、「公共放送から公共メディアへ」のスローガンのもと、インターネット展開に取り組んできたし、ネットがメディアの主役になった時代において、本来、放送事業者もさることながら、新聞社においても避けて通れないテーマのはずなのだ。
読売新聞は過去に、NHKは事業拡大よりも受信料値下げを優先すべきだと主張してきたし、事業者団体を通じてNHKのネット事業を縮小させるきっかけを作ってきた。
そのような時代において、読売新聞は「ネットにはできない独自の番組(紙面)づくり」をし、国民の目に留まるかたちで提供できているかというといささか心もとない。むしろ新聞業界のリーディングカンパニーとして、新聞のみならず、放送も含めたオールドメディアのデジタル化を主導すべきなのではないか。

前掲毎日新聞社説も「正確な情報を発信し、良質な番組を作る。原点に立ち返り、新たなメディア像を提示すべきだ」と述べている。
半分は同意できるが、そもそも新聞社はそのようなメディア像を提示し、具体化してきただろうか。
放送100年をめぐる新聞社説に代表される言説は、放送が達成してきた社会的・文化的功績を認めつつも、デジタル化の波、メディア不信、経済的困難といった現代的な課題に直面していることを示唆する。
読売新聞が掲げた「良質な番組作りへの責任」 というテーマは重要だが、番組制作資源の枯渇という現状を無視した抽象論であり、新聞社自身の失敗を棚に上げすぎている印象も拭い難い。
さらに日本のインターネットの30年あまりの歴史を振り返ったとき、安定して存在する「ネット発の報道機関」が登場しないことが日本のメディアと報道のこれからの難しい舵取りを印象付ける。
フジテレビ事件の第三者委員会調査報告書を読んでいると、本件事案のみならず、複数のコンプライアンス違反、ハラスメント、人権侵害の可能性が指摘されていることに驚きを禁じ得ない。
日本的組織は「ガバナンスの課題」を指摘されると、本件のように社長や取締役の辞任など人事上の対応でやり過ごそうとしがちである。だが、そもそも両者は噛み合っていないのである。
トップ人事でお茶を濁すだけで「ガバナンスの課題」が取り残されてしまうことになりかねないし、フジテレビの対応もそうだ。
そもそも第三者委員会の調査報告書以前においても、当座のガバナンスの機能不全の修正や再発防止策を提案、公表できたはずだが、フジテレビにそのような姿勢は見られなかった。
業界全体の問題だ。
「放送100周年」を契機として、各社の事業とコンプライアンス、そして放送の将来像の総点検が求められる。
それらなくして、日本の放送業界に明るい「次の100年」は訪れないだろう。