八代将軍・徳川吉宗に継嗣の補佐を託された?

 武元の棚倉治政は特筆すべきことはなく、早くから幕政に参画していたという(藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典』第1巻)。

 武元は元文4年(1739)に奏者番となり、延享元年(1744)に寺社奉行を兼ねている。

 奏者番は大名、旗本の将軍謁見の際に、取次や進物の披露を担う。譜代大名の中から優秀な若手が選ばれたという(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。

 寺社奉行は、全国の寺社の支配・管理、および、将軍家の宗教行事を司る。

 町奉行、勘定奉行とともに「三奉行」の一つに数えられ、奏者番の上位者が任命された。極めて重要な職であるのと同時に、老中などへの出世コースのスタート地点でもあった。

 武元は名門出身のうえ、人柄もよく、才能豊かな人物だったといわれ(大石学『徳川将軍事典』)、時の将軍・徳川吉宗も高く評価し、厚い信頼を寄せていたとされる。

 吉宗の継嗣・徳川家重は、言語が不明瞭のため、家重の言葉を理解できるのは側用人の大岡忠光のみだったといわれ、しかも病弱だったという。

徳川家重

 家重の行く末を案じたのか、吉宗は武元に、「家重を末永く補佐するように」と託している。

 武元は吉宗に応え、「(家重の)御病重りし時も、明くれ西城に伺候して、御薬の事なと専に沙汰しける」という(「有徳院殿御実紀付録」黒板勝美編『国史大系 第46巻』所収)。