目標を失った若年層
「疑似オウム」的なリスクについて、第2に強調しておきたいのは、社会全体が若年層に、リアルな希望、現実感あるやりがいなどを、提供できているか?という点です。
これについては、少なくとも大学の中では、1980~90年代よりも今2020年代半ばの方が、慢性化、悪化している面もあるように思います。
東大教養の1、2年生に「やりたいこと、ある?」と尋ねると、明確に「ない」と、結構元気よく答える学生の割合が、ここ15年ほど、明確に増えた印象があるのです。
分かりやすい曲がり角もありました。「東日本大震災」と「コロナ」です。
地震や原発事故が直接の原因とは言えないと思いますが、2010年代に入ると「データの改竄」など、研究不正が明らかになるケースが、以前より増えた感があります。
データとして文部科学省の調査結果をリンクしておきますが、これは2015年以降の数字が並んでいます。こうした調査が表に出るきっかけになったのは、前年の2014年1月以降のSTAP細胞詐欺事件の影響が決定的でした。
大学の学内でも無暗に煩瑣な割に内容は希薄な「研究倫理」のプロセスやら研修やらが設けられ、それを整備したことを手柄に研究無関係で出世する人間なども目にしました。
ここで私が思うのは「研究のサラリーマン化」です。
「職場としての大学」の環境を整えようというのは、決して悪いことではありません。
私だって、今まで27年間の教官生活を振り返れば「水銀や鉛など指定重金属に汚染されたキャンパスに封じ込められたくなかった」「コロナ発熱外来棟に学生を押し込められて往生した」など、指摘すべきことは山のようにあります。
ただ、そういうこととは別に、本当にクリエイティブに仕事している教員がどれほどいて、そこで手ずから仕事を覚え、日々、新たな価値を創り出していく歓びを伝授される、本来の「大学の愉悦」「創造の醍醐味」を、味わわせてもらっている学生は、いまどれくらいいるのか?
豊田君が学んだ「素粒子理論研究室」(通称「素研」)に関して言えば、1990年代前半、それ以前の世代を牽引したクリエイティブな第一人者が退いた時期と言えると思います。
1960年代から80年頃までは、今日の素粒子で標準模型と呼ばれるモデルの確立に貢献した西島和彦氏が「素研」を率い、多士済々の感があったと思います。
それが1980年代、冷戦末期となると、核兵器の基礎研究として巨額の予算投入が許されていた素粒子・高エネルギー物理全体に影が差し始めていました。
当時の素研、重鎮は猪木慶治教授、若手の中心人物は江口徹助教授、いずれも十分に優秀、しっかりした業績もあり、かつ懇切な人柄、誰もが認める東大本郷の素粒子理論教授であったと思います。
ただ、素研では、修士の学生に必ずしも最先端のオリジナルな研究はさせていなかった。
豊田君の場合は「大統一理論」GUTと呼ばれる、電磁気の力(の親戚を含む「弱電相互作用」)と原子核を結びつける力(として知られる「強い相互作用」)の統一を試みる分野の「レビュー」、つまり、どこにどのような重要な研究があるかを調べ、必要な検算など後付けを行う仕事で「修士」号を発給されました。
これについて、豊田君は「まー、不満はないけど、なんかなー」と思わざるを得なかった。
海外第一線の研究室では、レビューなどではなく、20代前半から自分固有のテーマをもらってオリジナルな業績を積む人も決して少なくない。
そんななかで「素研」が「秀才の墓場」化していたのは、紛れもない事実でした。
先週末、私の指導教官、小林俊一先生(元理化学研究所理事長・東京大学副学長)が2月にお亡くなりになっていたことを、やはり指導教官の大塚洋一先生(もご存じないまま密葬だったそうです)から伺い、私はいまもショックを受けています。
小林研究室、正確には佐々木亘・小林俊一研究室の学統は、早ければ学部4年の卒業研究でもオリジナルな成果が出れば学会登壇させる例もあり、人を大変多く育てる研究室でした。
東大だけで8学年に6人(池畑誠一郎、家泰弘、大塚洋一、河野公俊、小森文夫、勝本信吾)教授職を輩出。いずれも検索されれば、分野で大きな業績を挙げる碩学と分かると思います。
こうした方々、お一人お一人が優れた物理学者であるのは言うまでもないですが、先生方が環境に恵まれたこと、独自の業績を世に問い、米国IBMワトソン研究所、江崎玲於奈研究室などとの行き来を含め、トップの業績を矢継ぎ早に出せる環境、そういう空気があったのは間違いありません。
私はその研究環境で、あとあとノーベル賞も出たテーマを振っていただきながら、研究を形にせず音楽に流れましたので、そちらで仕事をし、教官として東大に呼ばれてラボを持ってからは「学際」が看板の部局でしたので、少しでも恩返しをと思いました。
国連・ユネスコ「世界物理年」の幹事など雑務も引き受け、ラボの1号博士、李珍咏氏も白川英樹先生にいただいたテーマを、私が学生時代はオソロシイ助手でらっしゃった勝本信吾さんに副指導で厳しく見ていただいて学位指導を頂きました。
私自身もそうですが、うちのラボの学生たちに「研究不正」の動機など、入ってくるわけがないのです。
だって、可愛い自分のテーマで、多くの場合装置から手製で、大げさに言えば人類の科学に新たな貢献を確かに自分の手で推し進めている手ごたえとやりがいがあるので、わざわざ自分でそれを貶めるような「不正」なんて、考えたこともありません。
翻って21世紀に入ってからの大学は、浅く安っぽく中身のない「数値目標」などが闊歩し、論文の件数が一つでも多い方が「人事で有利」「生き残れる」みたいな状況ができている。
これを「サラリーマン化」と書いたわけです。
こうした傾向は20世紀にも、決してなかったわけではない。
ただ、それが変に利権化したり「研究者」をやっている側の本人が、自分の研究の価値を信じていなかったり、残念なことですが、モラールの崩壊を目撃する頻度が、確実に上昇しています。
「理系エリート」とかいうウソは、「自分には関係ない」という多くの読者を安全な対岸に置く言い訳に過ぎません。
現実に起きたのは、極めてチンケな詐欺、霊感商法と、それが巨大な利権に繋がると気がついた悪い人間が、未来に希望を見失いかけた若者を、幅広に騙くらかして、加熱加速の結果、ああした事件が起きてしまった。
決して対岸の火事なんかではない、今度も普通に再発して不思議ではない構造を、日本社会そのものは温存、ないし今世紀に入って拡大した面がある。
そのことを、むしろ深く憂慮します。
社会は、あるいは大学は、若い世代に「本物の希望」「手ごたえのある生きがい」「価値創造の歓び」をこそ、伝える機関であるべきと思います。