30年にわたるデフレからインフレ基調に転換した日本経済。写真は日銀の植田総裁(写真:ロイター/アフロ)30年にわたるデフレからインフレ基調に転換した日本経済。写真は日銀の植田総裁(写真:ロイター/アフロ)

 約30年にわたり、日本はデフレに悩まされてきた。ただ、頭を抱えていたのは政府関係者や学者であり、私たち生活者にとって、それはとても居心地の良い社会だったのは事実である。賃金は上がらずとも、いつでもどこでも安くモノを買うことができた。

 ところが、2022年から、そんな居心地の良い社会の崩壊が始まった。インフレである。日本はなぜ慢性デフレに陥ったのか、なぜそれが終焉を迎えつつあるのか──。『物価を考える デフレの謎、インフレの謎』(日本経済新聞出版)を上梓した渡辺努氏(東京大学大学院経済学研究科教授)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

──なぜ日本では、約30年にわたり物価も賃金も据え置きという状態が続いたのでしょうか。

渡辺努氏(以下、渡辺):いわゆる「失われた30年」ですね。おっしゃる通り、1980年代後半から2010年代の日本は、慢性的なデフレに悩まされていました。

 もちろん、30年の間にも、一時的なインフレは起こっていました。わかりやすい例としては2014年のインフレが挙げられます。これは、インフレ誘導政策であるアベノミクスによって生じたインフレです。でも、このインフレが恒常的に続くことはありませんでした。

 日本が長いデフレに陥った要因の一つは、インフレを抑制する力が消費者側から発せられていた点です。

 2021年8月に私たちの研究チームは、イギリス、アメリカ、カナダ、ドイツ、日本の消費者2万人を対象に「1年後の物価は現在と比べてどうなると思うか」というアンケートを実施しました。

 その結果、日本以外の4カ国の消費者の大半が「かなり上がるだろう」「少し上がるだろう」と回答したのに対し、日本の消費者の3割以上が「今とほとんど変わらないだろう」を選択しました。なお、日本以外の4カ国で「今とほとんど変わらないだろう」と選択した人の割合は10%前後でした。

 日本では「モノの価格は一定で然るべき」という考え方が欧米諸国と比較して浸透していました。すなわち、値上げに対する社会の抵抗が根強く存在していたのです。

 また、2016年4月にアイスキャンディーの「ガリガリ君」が60円から70円に値上がりしました。このとき、製造販売元の赤城乳業株式会社の社長が値上げについて謝罪するというテレビCMが話題になりました。

 このCMは、インフレが当たり前の海外では異様に感じられたようで、米ニューヨーク・タイムズが1面に掲載し、日本の消費者がいかに値上げを嫌がっているのか、そして原材料の値上がりという正当な理由があるにもかかわらず、社長が謝罪しなければならない日本の社会の歪みを痛烈に批判しました。

「ガリガリ君」の値上げの際には社長が謝罪した(写真:松尾/アフロ)「ガリガリ君」の値上げの際には社長が謝罪した(写真:松尾/アフロ)

 パンデミック後の2021年春頃から欧米諸国では激しいインフレが始まりましたが、日本では値上げに対する抵抗感があったため、インフレが始まったのは2022年に入ってからでした。

──賃金が据え置かれてきた理由について教えてください。