「蒸留」はなぜ簡単ではないのか?

「教師と生徒」というたとえ話は蒸留を説明する際によく使われ、分かりやすいものだが、実際の蒸留過程はそれほど簡単なものではない。模倣を行うためには、AIモデルに関する深い知識と高度な技術が必要になる。

 それに、単にモデルをコピーするのではなく、教師モデルのどの部分を、どのように生徒モデルに伝えるかを適切に設計しなければならない。

 そのためには、模倣する教師モデル自体の内部構造への理解も必要で、それは特に外部のモデルを教師とする場合には、極めて困難なことになる。他社のモデルの内部構造は、通常は公開されておらず、ましてや勝手にコピーしようとしている相手に教えようとはしないからだ。

 さらに、OpenAI相手の場合、APIの利用制限という壁も立ちはだかる。

 OpenAIは、自社モデルを外部から利用するためのAPIについて、その利用回数や出力形式などに制限を設けている。そのため、大量の質問を行い、生徒モデルの参考となる回答を大量に引き出そうとしても、シンプルに不可能であったり、あるいは多額のコストがかかったりしてしまう。

 もちろん、OpenAIはAPIの利用状況を把握しているため、後から蒸留が疑われる行為を把握することも可能だ(既にディープシークの疑いについても、利用ログから調査が行われていると見られる)。

 このように、一口に蒸留といっても簡単な行為ではなく、仮にディープシークが蒸留によって高性能モデルを開発したのだとすれば、そこに何らかの技術革新があった可能性は残る。

 そうした可能性を背景に、米政府関係者や議員の中にはディープシークやR1を可能にした技術的要素を早く特定し、その拡散を防ぐ措置(GPUの輸出制限のような対応)を取るべきだと主張する声もある。

 いずれにせよ、ディープシークの秘密が完全に明らかにされ、「最先端のAIモデルの開発には、最先端の関連ハードウェアと多額の予算が必要」という考え方が新しいものに移行するまでには、まだもう少し時間がかかるようだ。

【小林 啓倫】
経営コンサルタント。1973年東京都生まれ。獨協大学卒、筑波大学大学院修士課程修了。
システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業、大手メーカー等で先端テクノロジーを活用した事業開発に取り組む。著書に『FinTechが変える! 金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』『ドローン・ビジネスの衝撃』『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(草思社)、『データ・アナリティクス3.0』(日経BP)、『情報セキュリティの敗北史』(白揚社)など多数。先端テクノロジーのビジネス活用に関するセミナーも多数手がける。
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