「転落」の先にあった自由
終戦直前に年寄を廃業した理由も常人では考えられないものだった。自宅の庭を開墾し農園を開いたら、農作業が楽しくなってしまい、理事会からも足が遠のいた。協会仕事が面倒くさくなり、辞めてしまったのだ。
自由な振る舞いは、時に危険を伴うこともあった。戦時中、三鷹の自宅で「この馬鹿げた戦争はいつ終わるのだ」と叫んだことがあった。息子の和夫は子ども心に「外に聞こえはしないか」とハラハラした。さらに男女ノ川は庭に出て、隣家に向かって「じいさん、じいさん」と声をかけた。その隣人こそ、徹底抗戦を訴え、終戦の日に自決した陸軍大臣・阿南惟幾だった。
農業を始めると収穫間際に作物を盗まれる被害に遭ったが、男女ノ川は盗まれたことに怒りを示すのではなく、「平和じゃないから盗む人がいるんだ」と戦時下の国を嘆いた。そんな気持ちは自然と政治に向かった。
「元横綱の知名度があれば当選できるだろ」。1946年4月の戦後初の民主的な選挙(第22回衆議院議員総選挙)に出馬する。しかし結果は惨敗。3年後の衆院選にも出馬するが、またも破れ、貯金は底をつき、農園も手放すことになる。
選挙後は、土建業、保険外交員、私立探偵、金融業と、職を転々とする人生が始まる。探偵事務所は自ら開いたが、190センチを超える巨体が災いして尾行が全くできず早々と断念した。

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その後、思いがけずハリウッド映画に出演する機会も得たが俳優として大成することもなかった。