気ままな生活に妻子はついていけず、別居することになる。その後、脳出血で倒れて施設に入った男女ノ川を救ったのが、かつての後輩で時津風理事長となっていた双葉山だった。表向きは「有志」として当時で総額33万円という大金が贈られたが、実際はほぼ全額を双葉山が負担したという。
晩年は東京都武蔵村山市の料亭で過ごした。男女ノ川の最晩年については「料亭の下足番として生涯を終えた」という逸話が有名だ。『下足番になった横綱』(川端要寿、小学館文庫)という小説の題材にもなり、そのイメージが完全に定着してしまっている。
Wikipediaにも「下足番」のエピソードが記述されており、「栄華を極めた者の没落話」として語られがちだが、実際には支援者に料亭の敷地内に離れを新築してもらい、周囲からは「親方」と呼ばれて悠々自適の生活を送っていたという。気さくな性格から、玄関で客を出迎え、写真撮影にも快く応じていた姿が「下足番」として伝えられたのだという。
1971年1月19日、最期の日の前日。男女ノ川は虫歯に悩む息子にウイスキーで浸した脱脂綿を詰めた。珍しく父親らしく振舞った翌日、67歳で生涯を閉じた。
息子の和夫は「貧乏のまま亡くなった父ですが、本当の自由人だったんだと、いま思います」と振り返っている。
自分ならではの「物差し」
相撲界の常識や世間体にとらわれない生き方は「奇人」と評されたが、それは彼なりの自由を選んだ結果だったのかもしれない。引退後の人生は、世間的には「転落」と見なされがちだが、それは世間の物差しで測ったにすぎない。彼にとっては決して「転落」ではなかったのだ。
人生100年時代の今、キャリアの転換や引退後の生き方は、誰もが直面する課題となっている。男女ノ川の生きざまは自分なりの物差しを持つ重要性を教えてくれる。
参考文献
川端要寿『下足番になった横綱』小学館文庫
抜井規泰「角界余話 賜杯90年:6 男女ノ川の破天荒人生」『朝日新聞』2017年9月17日朝刊27面
抜井規泰「角界余話 賜杯90年:7 「下足番」説、独り歩き」『朝日新聞』2017年9月17日朝刊25面