吉原の魅力を発信し出版業で成功

 現在、アニメの舞台になった場所をファンが訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶ。江戸時代の人々の吉原へのあこがれは、まさに聖地巡礼といってよかろう。

 かくして、吉原は遊廓であると同時に、江戸最大の観光地となったのである。江戸に出てきた武士や庶民にとって、浅草の浅草寺に参詣したあと、裏手にある吉原に足をのばして見物するのは定番の観光コースとなった。男だけでなく、女も吉原を見物したがった。

 羽州鶴岡(秋田県鶴岡市)の豪商の妻、三井清野は供を連れて国内を旅行したが、江戸に立ち寄ったとき、文化十四年(一八一七)四月十二日、吉原を見物している。また、幕末の志士・清河八郎は安政二年(一八五五)八月二十二日、母親を吉原に案内し、妓楼に上がって花魁の居室の見学までさせている。

 女も吉原や遊女を蔑視したり、差別視したりしていなかった。むしろ、吉原の遊女のファッションは、髪型や衣装なども含めて、流行の発信源だった。

 こうしたことを考えると、蔦重は刊行物を通じて吉原の魅力を発信することで出版業として成功した。いっぽう、吉原は蔦重をはじめとする江戸の出版社の刊行物のおかげで、他の遊里にはない格式を手にし、にぎわいと活気を維持できたと言えよう。

図2『潮干のつと』(蔦屋重三郎刊、寛政初年頃) 国立国会図書館蔵

 蔦重は多くの若い才能を見出し、育てている。その代表が喜多川歌麿であろう。図2は、歌麿の絵を採用して、蔦重が刊行した作品。さらに、東洲斎写楽も蔦重が才能を発見し、世に出した。

 老中松平定信が推進した寛政の改革で、蔦重は風儀を乱す出版物を刊行したとして処分を受け、かなりの打撃を受けた。しかし、ひるむことなく歌麿の美人画や写楽の役者絵で気を吐いた。

 寛政八年(一七九六)、蔦重は四十八歳で死去した。だが、蔦重が残したものは大きい。

 歌麿、写楽は現在、日本のみならず世界的にも評価が高い。また、蔦重が刊行した戯作は今も江戸文学の傑作として読まれ続けている。

 (編集協力:春燈社 小西眞由美)