(ライター、構成作家:川岸 徹)
太陰太陽暦が使われていた江戸時代。当時のカレンダーはどんなものだったのだろうか。江戸時代に流行した「大小」「絵暦」を通して、当時の暦の文化を紹介する展覧会「読み解こう!北斎も描いた江戸のカレンダー」が東京・すみだ北斎美術館で開幕した。
江戸で使われていた太陰太陽暦とは?
「ニシムクサムライ(西向く士)、小の月」。現代において、その月が大の月であるか、小の月であるかを判別する手軽な方法だが、江戸の人々にとって月の大小を知るのは容易なことではなかった。
というのも、江戸時代の暦は太陰太陽暦。これは月の満ち欠けによって1か月の長さを決める暦法で、新月は1日、満月は15日と定められていた。だが、月が地球を1周するのにかかる日数は平均29.5日。そこで大の月は30日、小の月は29日としたが、それだけではうまくいかない。
季節は月の運行ではなく、地球が太陽の周りをまわることで変わる。そのため季節と暦がうまく合うように、毎年暦を計算して大小の月を並び変えるという、何ともややこしい方法が採用された。1月が大の月になったり、小の月になったりと、その年その年によって調整されていたというわけだ。
さらに厄介なことに、1か月を平均29.5日とすると「29.5×12=354」となり、現代の1年よりも10日ほど短くなってしまう。そこで3年に1度程度、閏月(うるうづき)を加えた。つまり年によっては、1年が13か月ということもあったのだ。
なんとも面倒で厄介な太陰太陽暦。とはいえ、よく分からないでは済まされない。江戸時代は月末にまとめて支払いを行う“月払い”が主流であったため、何月が大の月か小の月かを知っておくことが重要だった。そこでカレンダーが必要になってくるわけだが、正式な暦は幕府の許可を得て交付されるもの。誰もが自由に作っていいものではなかった。