飲酒して討論する配信動画はなぜウケるか

 大仰だが、政治の歴史は人の世の歴史でもある。発展しているようで、案外、変わらない点もある。

「政治は言葉とともにある」などと言われることもあるが、政治は言葉を使って人々を魅了し、説得し、動員し、投票を通じた信任に結びつける。

 法律や政策も言葉で書かれるし、省みられ、記録され、後代まで流通するのもまたもっぱら言葉である。

 政治の営みの中核には言葉があり続けてきた、はずなのである。

 政治の言葉は「本音」と「建前」でできている。日常生活と同等かそれ以上に。

 そんな政治の「本音」は、いま、いったいどこにあるのだろうか。最近の論調では、SNSと動画にある……というと大袈裟だが、そこで語られる言葉が最近では政治家に限らず「1次情報」と捉えられ、政治家の動画での発言こそが「本音」と目される時代なのだ。

 細かいことをいえば、本人が言っているから正しいとも限らない。間違うこともあれば、嘘をつくこともある。

 穏当にいえばそれぞれの立場で話しているということだし、それでも特に罰せられないのが自由主義社会の表現の自由の肝だが、どうも「『本音』が知りたければ(マスメディアではなく)ネットを見ろ」「ネットには『本音』がある」という認識は世代を問わず広まっているようだ。

 1時間から数時間の長尺動画で好まれる振る舞いはこれまでのメディアのそれとは少々勝手が異なっている。筆者も10年近く前から、ゲンロンをはじめリハックなど長尺動画にも出演し、並行して今もほそぼそと伝統的なテレビやラジオコメンテーターも続けているので、理屈に加えて経験的にもそのように感じる。

 テレビは没入感が低い一方で、配信動画はスマホを中心とすると思われる視聴環境含めて没入感が高い。画面が相対的に小さくなりがちなこともあって、出演者にかなり寄った動画や画面構成が中心になりがちだ。

 そこで求められるのが没入感とその演出である。

 長尺動画では、延々と演説する様は忌避される。なにも政治家だけに限らないが、こうした政治家は与野党問わず決して少なくない。そして、たいていしんどい。

 内容が正確だとしても、受け入れられ難いのである。「長くて、わかりにくい」などと批判が集まりがちである。

 飽きさせず、配信を途中から見始めた場合にも文脈にさほど影響されずに視聴できる表現、演出が好まれる。

 それは身体表現などの動きであり、表情であり、声や喋り方の抑揚である。NHKのアナウンサーが典型的だが、正確で抑揚のない表現はむしろ刺激が少なく、敬遠されがちである。

 変化や緩急が刺激として好まれるし、その典型的な例は飲酒しながらの配信だ。

 アルコールが回れば、誰しも当然そのうち呂律は回らなくなり、挙動は不審になり、そのうち酩酊し、ハプニングが起きる。テレビでそんな画が流れることはめったにない。コンプライアンス上も限界があるし、そもそも「常識」的にも酒の場限りというのがお約束であった。

 ところが長尺動画の世界においては、すべてが刺激であり、スパイスになっている。間違いや意味不明な言動でさえ、「親密さ」を錯覚させる。ネットの長尺動画が、しばしば飲みながら配信される理由のひとつだ。

「親密さ」が新しいファンと熱狂を生み出すのだ。