急ぐべきネット選挙の法整備
それらをつなぎ合わせているのが長尺動画の世界だ。筆者はもともとネット選挙なども研究していた。2010年前後、ネット選挙解禁の議論の過程でこうした世界はほとんど想定されていなかった。
ネットの有償広告というとき、念頭に置かれていたのはウェブサイトのバナー広告やせいぜいTwitter(現:X)などのプロモーションであった。
動画配信もなかったわけではないが、今ほどポピュラーではなかったし、画質なども低く、携帯電話の現実的な通信速度による制約や料金プランもまだ高額だったためだ。
日本では選挙制度改革は政治主導で行われるべきという不文律が強く、選挙制度を所掌する総務省は現在、少なくとも表立って選挙制度改革に関連する有識者会議を動かしてはいない。平成の末に止まったままだ。
しかしデジタル化の歩みは速い。2024年は、ネット選挙だけではないがどうも選挙に関連する、少なくとも記憶に残るインシデントが相次いでいる。
ネットと動画を念頭においた現状の可否、対策等の検討は早急に開始すべきではないか。
文書図画にネット選挙を位置づけることの可否や従来文書図画規制との整合性、政党優位で一般有権者に制約の多い現状のネット選挙の可否、電子メール規制の合理性、そして動画や収益性それらの規制の必要性の有無など検討すべき課題は少なくないように思われるし、こうした課題は放置されたままである。
最後に抽象的な話をして締めくくろう。
「本音」は重要だが、並行して「建前」も同等かそれ以上に重要だ。露骨な本音だけでは鼻白んでしまう。
そのことがすっかり忘れられている。
「手取りを増やす」政策を嬉しく思わない生活者はいないだろうが、あまりに身も蓋もない言い方で、知性や理性を感じられない。
それだけ我が国が貧しくなったということだろうが、マックス・ウェーバー『職業としての政治』を引き合いに出すまでもなく、「それでも、なお」とばかりに有権者の理性と知性を豊かにする言葉を選ぶ不可能に挑んでほしいものである。
「手取りを増やす」はあまりに即物的で、動物的だ。そんな言葉が氾濫する政治は決して誇れるものとはいえまい。
もはやそのテーゼにすら同意を得ることも難しいのかもしれないが、各党、各政治家にはもっと言葉を磨いてもらいたい。