愛嬌と浪花節、凄みと腹黒さ
ハマコー先生が議員としてその名を世に知られるようになったのは、1979年に自民党が主流派と反主流派に分かれて抗争した、いわゆる「四十日抗争」の時だった。自民党本部で議員総会を開こうとした主流派に抵抗して反主流派が会場入口をバリケードで封鎖した。
それにブチギレた武闘派ハマコーがマスコミの前でバリケードの椅子や机を放り投げながら大声で叫んだ。
「いいか! 断っておくけどなー、かわいい子供たちの時代のために自民党があるちゅー事をわすれるなー! お前たちのために自民党があるんじゃないぞー」と、ハマコーは吠えた。その姿がテレビで全国に流れた。
彼の破天荒なエピソードは数限りない。
1973年にはラスベガスのカジノでバカラ賭博をやり、4億6000万円をすった話が話題となった。さらに右翼皇民党による竹下登ほめ殺し事件の解決に関与した話も有名だ。ヤクザ組織・稲川会の石井を通じてハマコーが「8億円積むから手を引け」と言ったとか。その手の噂は絶えない人物だ。
またさらに、衆議院予算委員会委員長になったときの委員会で共産党の正森成二の質問中、質問を遮ったハマコーはやにわに「共産党議長宮本顕治は人殺しだ」と言い放った。その責任をとって委員長を解任されたが、このように爆弾を抱えた人間にとても大臣は任せられないと、歴代総理も決してハマコーを閣僚にはしなかった。
ある年の元旦の早朝にハマコーの写真を撮りに行ったことがある。元旦に地元富津市の神社の石段をもろ肌脱いで駆け上がる習慣があると聞いたからだ。その背中には鮮やかな彫り物があるはずだ。しかし、残念ながら彼はジャージを着ていた。「おッ! なんだ? どうして俺を撮りに来たんだ?」と彼は荒い息を弾ませながら凄んだが、何を狙って来たのかは内心わかっていたようだ。
この様な彼の逸話は書ききれないが、今思い返すと良いも悪いも、彼はまさに愛嬌と浪花節と凄みと計算された腹黒さを兼ね備えた昭和の政治家だったのだと思う。