こうするしかないという形式的な謝罪
ここ1、2か月で「謝罪」に関する記事が多く出た。
2024年10月、58年前に静岡県で一家4人が殺害された事件の再審が行われ、58年間服役していた袴田巌氏の無罪が確定した。
これを受け、静岡県警察本部の津田隆好本部長が、袴田巌さんに対し、「逮捕から無罪確定まで58年間の長きにわたり、ことばでは言い尽くせないほどのご心労とご負担をおかけし、申し訳ありませんでした」などと謝罪した。
これはどう考えても、こうするしかないという形式的な謝罪である。
面会に同席した袴田さんの姉のひで子さん(91)は、「いまさら警察に苦情を言うつもりはありません」といい、「巌に死刑囚だったことを忘れるためのふんぎりをつけてもらいたいと思ってきょうはお迎えしました」と話した。
ここには、戊辰戦争で長州藩が会津藩に為した凄惨な仕打ちを、現在の山口県が会津若松市に謝罪するのとおなじようなもので(ちがうか?)、気持ちのうえでの「ふんぎりをつけるため」以上の意味はない。
「心から謝罪したい」という口先だけの言葉
10月、元大阪地方検察庁検事正で弁護士の北川健太郎被告(65)が、検事正在任中だった2018年9月、大阪市内の官舎で、酒に酔って抵抗できない状態だった当時の部下の女性に性的暴行を加え、準強制性交の罪に問われた裁判が始まった。
北川被告側は、「公訴事実を認め、争うことはいたしません。被害者に対して重大で深刻な被害を与えたことを心から謝罪したいと思います」と述べた。
しかし「心から謝罪したい」という口先だけの言葉は、なんの意味もない。むしろ、腹立たしいものだ。被害者の傷の深刻さと、まるでつり合いがとれないのだ。