奇跡的に日本に帰還
実はこの掛け軸、静岡県富士山世界遺産センターが4年前、「富士山が描かれている」という理由で、国内の画商から購入したものでした。ところが、それから2年後、思わぬ事実が明らかになりました。
1860年の万延元年遣米使節に次いでヨーロッパへ派遣された文久遣欧使節団(1862年)が、フランスやイギリスなど訪問先の6カ国に贈ったとされる掛け軸の中に、「富士飛鶴図」と構図が酷似した作品があることが判明。さらに、それらの掛け軸が、この「富士飛鶴図」を手本にして制作されたことを裏付ける史料も見つかったというのです。
同センターの松島仁教授よれば、幕末期の外交史料集である『続通信全覧』の「新見豊前守等米国渡航本条約書交換一件」には、アメリカ大統領へのさまざまな贈答品に関する記録が残されており、渡米の数カ月前から絵師や職人に細かな発注をおこなっていたことや、その制作過程が詳細に記されていたそうです。
そして、この記録から、「富士飛鶴図」という掛け軸は、その寸法や模様、仕様に関する指示内容から、まさに1860年の遣米使節が持参した当時の贈答品のひとつであることが特定できたというのです。
『続通信全覧』によれば、贈答用の掛け軸は「富士飛鶴図」を含め計10幅が制作され、セットで贈られたようなのですが、残念ながらそれらはすべて所在不明となっていました。つまり、今回富士山世界遺産センターが偶然入手することになったこの「富士飛鶴図」が、現在確認できる唯一の掛け軸ということです。
調査にあたった松島教授はこう語ります。
「江戸時代、富士山は不可視的存在である徳川将軍と一体化し、その威光を示す政治的な装置として機能していました。この掛け軸は、まさに富士山が日本を代表する美として評価され、幕末の外交、政治にも使われていたことがわかる重要な資料といえるでしょう」
では、なぜアメリカ大統領へ送った貴重な品が、再び日本に戻ってきたのでしょうか。その経緯については今のところ分かっていませんが、160年もの時を経ながら、完璧な保管状態で富士山世界遺産センターに里帰りし、こうして遣米使節子孫の会のメンバーと対面できたことは、まさに奇跡と言えるでしょう。
ちなみに、佐野鼎(筆者の母方の傍系先祖)は、駿河国(現在の富士市)出身で、江戸の学問所に上がる16歳頃まで富士山の麓で育ちました。『開成をつくった男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)の中では、旅の守りとして故郷の富士をかたどった根付を大切に携行する鼎の姿を描いています。
日々、雄大な富士山の姿を仰ぎ見ていたであろう鼎は、アメリカ大統領への贈答品の中に富士山をモチーフにしたこの掛け軸が含まれていたことを知っていたでしょうか。もし知っていたなら、きっと誇らしい気持ちになったのではないかと想像します。
いつの時代も、国際外交には心のこもった贈り物が欠かせません。石破首相は第47代のアメリカ大統領となるトランプ氏にどんな品を携え、コミュニケーションを図るのか、今から楽しみです。