1973年に巨人のV9(セ・リーグ、日本シリーズ9連覇)が終わってから、セ・リーグでは広島、ヤクルトが球団創設以来初優勝。パ・リーグでも阪急、近鉄が強豪チームの仲間入りをしたが、これらのチームの躍進には1968年ドラフト組の選手が原動力になった。

ドラフト制度導入で思うように有望選手を獲得できなくなった巨人

 しかしながらこの年の読売ジャイアンツはドラフトでは「一人負け」の様相だった。10人の選手を指名し、1人が入団拒否、9人が入団したが、1位の武相高、島野修は通算24登板1勝、投手では2位の日本通運、田中章が300登板36勝したのが最多。野手では9位の日本新薬、梅田邦三が760試合に出て260安打したのが最多。巨人の主力に成長した選手は皆無だった。

 1957年、大学野球最大のスターだった立教大学、長嶋茂雄が南海入団を九分通り決めながら土壇場で巨人入団を決めたことは、すでにふれたが、他球団のスカウトが苦労して見つけた有望選手を巨人が「ブランド」をちらつかせて逆転で獲得するケースは、それ以後もしばしば見られた。

 他球団が全国各地で選手の「掘り出し物」を発掘している中で、巨人のスカウトは後からやってきて「トンビが油揚げをさらうように横取りした」とは、当時のスカウトがよく口にした話だ。

 そうしたスカウトが中心だったために、巨人はアマチュア野球のネットワークや、選手の可能性を見極める鑑定眼において他球団に見劣りしていた、という見方があるのだ。後出しありの自由競争ではなく、各球団が自分たちが考える有望選手を同じタイミングで一斉に指名するドラフト制度の導入によって、スカウト陣の実力差が如実に出たと言うこともできよう。

 巨人は第1回ドラフトの1965年に甲府商の投手堀内恒夫、67年に明治大の外野手高田繁を獲得。ともに「V9戦士」と呼ばれる主力になった。それ以降もそれなりにレギュラー選手は輩出したのだが、ドラフト制度以前のように、その年の有望選手の中から選り抜きの選手を自由に獲得するようなことはできなかった。

 1973年にV9が途切れてからも巨人は「比較的優位」なチームではあり続けたが、かつてのような「絶対的な存在」ではなくなった。「球界の盟主」を自ら任ずる巨人にとって、それは大きな不満であったに違いない。

 そして1977年に、球界を揺るがす「江川事件」を起こすのだ。