売薬版画や挿絵で腕を磨く

尾竹国一(越堂)《役者見立 壇浦兜軍記・阿古屋琴セメの段》1891(明治24)年 富山市売薬資料館【後期展示】

 新潟県で紺屋(染物屋)を営む家に生まれた尾竹三兄弟。家業の傍ら「国石」という号をもち文筆や絵を得意とする父・倉松と、食客として尾竹家に滞在していた南画家・笹田雲石から手ほどきを受け、作画のいろはを学んでいく。

 だが、家業の経営が悪化。三兄弟は富山に移り、富山のクスリにおまけとして付いていた売薬版画や新聞の挿絵などで生活費を稼ぐようになる。絵は生活のためのもの。そう割り切りつつ、様々な物語を注文主の意向に沿って絵画化する挿絵の仕事は、画力を高める鍛錬になった。

 その後、竹坡は京都円山派の川端玉章に師事し、国観は歴史画の大家・小堀鞆音に入門。二人は「よりお金を稼ぎ、立身出世するためにはどうしたらいいか」と考えた。その答えは「展覧会」。明治30年代、二人は次々に展覧会で入選を重ね、若くして頭角を現していく。

 その躍進を支えたのは、挿絵の仕事で培った「何が求められているか」を読み解く力。明治37年作の尾竹竹坡《母と子(真心)》はアメリカ・セントルイス万国博覧会の出品作。母が幼子に母乳を与える場面を描いた作品で、欧米人に鑑賞されることを意識し、ラファエロの聖母子像の構図が取り入れられたとの指摘がある。

 明治40年(1907)に創設された文部省美術展覧会(文展)では、国観《油断》、竹坡《おとづれ》がそれぞれに二等賞を受賞。弟たちの活躍に刺激を受けた越堂も文展を目指し、大正元年(1912)の文展では三兄弟揃って入選する快挙を成し遂げた。

尾竹国観《油断》(右隻) 1909(明治42)年 東京国立近代美術館【前期展示】
尾竹国観《油断》(左隻) 1909(明治42)年 東京国立近代美術館【前期展示】