武蔵野美術大学在学中にデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、1975年には日本版月刊『PLAYBOY』の初代アートディレクターを務めるなど、雑誌や広告を主な舞台に日本のアンダーグラウンドなアートシーンを牽引してきた田名網敬一。自身初となる大規模回顧展「田名網敬一 記憶の冒険」が開幕した2日後の8月9日、くも膜下出血のため死去。その偉大な足跡は長く語り続けられるだろう。

文=川岸 徹 撮影=JBpress autograph編集部

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

東京・目黒にて戦争を経験

 1968年生まれの記者は戦争を知らない。激動の時代といわれる60年代もまったく記憶にない。ベトナム戦争、日米安全保障条約の改定、文化大革命、オイルショック。すべて後から教えられただけの知識だ。「そんなお前に田名網敬一の世界が理解できるのか?」と思われるのもごもっともだが、それでも田名網敬一の作品が放つ圧倒的なパワーに惹かれてしまう。

 8月7日、国立新美術館にて「田名網敬一 記憶の冒険」が開幕した。驚いたことに、田名網はすでに60年以上のキャリアをもちながら、国公立美術館での個展は初めてのことなのだという。日本版月刊『PLAYBOY』、通称“月プレ”の初代アートディレクターを務めていたこともあり、出版業界に勤めた人や60、70年代に青春時代を送った人にはおなじみの人物だが、まずは田名網敬一がどんな人生を歩んできたのか、改めて紹介しておきたい。

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

 田名網敬一は1936年、東京・京橋にあった服地問屋の家に生まれた。1942年4月に東京への空襲が始まると、目黒・権之助坂付近にあった祖父の家に移り住んだ。終戦まで100回以上に及んだ東京への焼夷弾の投下。その様子を田名網は祖父の家の防空壕から眺めた。アメリカの爆撃機、それを追う日本のサーチライト。人々は逃げまどい、街が炎に包まれていく風景を目の当たりにしたという。

 そしてもうひとつ、田名網の記憶に焼き付いた光景がある。祖父の飼っていたランチュウや出目金など畸形の金魚が、爆撃の光に乱反射しながら水槽を泳ぐ姿だ。

「それが異様な美しさなんだ。照明弾の強い真っ昼間のような光の中に水槽が浮かび上がっている。そこに鱗に光を受けた畸形の金魚がキラキラ発光して、ヒラヒラ、ユラユラ泳いでいるんだよ。恐怖心はあったけど、その水槽を見ていると僕は興奮を全身で感じていた。それは、いまでも思うけど、どんな幻想体験よりも強烈だった」(田名網敬一公式サイトより)

 

紙芝居、映画との出会いが道を決めた

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

 戦争が終わり、焼け野原となった東京で、田名網の心をつかんだのが紙芝居だ。上演前から長いこと待ち、一番前に座って『黄金バット』や『少年王者』を見た。田名網は言う。「僕の原点は山川惣治であり、紙芝居と単行本の『少年王者』に出会っていなければこの世界に入らなかったかもしれない」。

 アメリカ製の映画もまた、田名網の進むべき道に決定的な影響を与えた。1年間に見る映画は500本以上。サイレント・トーキー時代を代表する映画監督で俳優のトッド・ブラウニングの『フリークス』、ジャック・アーノルド監督による『大アマゾンの半魚人』。ジェーン・ラッセル『ならず者』、マリリン・モンロー『ナイアガラ』、ジェーン・マンスフィールド『女はそれを我慢できない』といった、いわゆる“グラマー女優もの”にも夢中になった。

 田名網にとって映画とは、夢幻の覗き穴から現実を垣間みるといった、虚実入り乱れた混乱に身を置くこと。「できることなら、この居心地のよい闇の中だけで生きられないものかと、真剣に考えたこともあった」という。

 

ムサビ、博報堂、そしてフリーランスに

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

 こうした少年時代を経て田名網は画家を目指すが、画家に対して“貧乏で、汚くて、女ったらしで酒飲みの落伍者”というイメージをもっていた母親と親戚一同は猛反対。デザインの世界ならばきちんとした職業に就けるのではないかということで、武蔵野美術大学デザイン科へ進学した。

 大学2年の時に日本宣伝美術会が主催する日宣美展で特選を受賞。この受賞をきっかけに、在学中から雑誌のエディトリアルデザインの仕事などを引き受けるようになる。1960年にムサビを卒業して博報堂に就職したが、田名網個人への仕事が殺到し、わずか2年で退社。フリーランスとして活動を始めた。

 60年代から70年代にかけての田名網の活動は、まさに縦横無尽。アートの枠には収まらず、メディアやデザインなどを横断して多彩な作品を発表した。アンディ・ウォーホルに刺激を受けたシルクスクリーン作品《ORDER MADE‼》(1965年)、アーティストブック『田名網敬一の肖像』(1966年)。モンキーズ『Pisces,Aquarius,Capricorn & Jones Ltd』(1968年)やジェファーソン・エアプレイン『After Bathing At Baxter's』(1968年)といった、ロックバンドの日本版アルバムジャケットも手がけている。

 さらに同じ1968年、田名網はアメリカ『AVANT GARDE』誌が行った反戦ポスターコンテストにも応募している。2000を超える応募作の中から田名網の《NO MORE WAR》は入選を果たし、そのポスターは誌面に掲載され、世界へと発信された。

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

 映画で育った田名網は、映像作品の制作にも積極的に取り組んだ。マリリン・モンローやディズニー風のキャラクターが登場する《Good-by Marilyn》(1971年)、エルヴィス・プレスリーやマーロン・ブランドが出てくる《Good-by Elvis and USA》(1971年)。これらは深夜番組「11PM」で放映されたものだ。アメリカの象徴的なアイコンを用いて強大国家をアイロニカルに批判する姿勢は頼もしく見えるとともに、この時代は倫理的にも、肖像権的にも、おおらかでなんでも許された時代だったのだと思う。

 

過去の「記憶」が今も増幅し続ける

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

「田名網敬一 記憶の冒険」は、今年米寿を迎えてなお精力的な活動を続ける田名網敬一の、初めてとなる大規模回顧展。田名網最初の金魚作品《Gold Fish》(1975年)をはじめ、戦争体験によって重要なモチーフになった「金魚」が登場する作品がいくつも展示されているし、先に述べたシルクスクリーン作品《ORDER MADE‼》や反戦ポスター《NO MORE WAR》、「11PM」のアニメーション作品ももちろん鑑賞できる。

 神仙思想に基づいた表現が楽しい80年代の東洋的な作品や、Mary Quant、adidasなどのファッションブランド、GENERATIONS from EXILE TRIBE、八代亜紀、RADWIMPSといったミュージシャン、敬愛する漫画家・赤塚不二夫とのコラボレーション作品も見ごたえがある。さらに新作インスタレーション《百橋図》も公開。橋がいくつも積み上げられた不思議な造形で、その橋の上にはプロジェクションマッピングで投影された奇妙な生物たちが蠢いている。この柔軟で自由な発想、とても88歳での製作とは思えない。

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景

 こうした近作も、制作の根底にはやはり戦争と激動の60年代の体験がある。その時代の記憶を増幅し、圧倒的な熱量をもって現代に伝える田名網敬一。過去の作品も今の作品も、色彩がどぎつく悪趣味と感じるかもしれない。作品の随所に見られる性的表現も現代の倫理観ではアウトだとも思う。それでも、田名網作品と対峙すると、そんなことは「どうでもいいや」と思えてしまう。

 戦争は起きてほしくないし、激動の60年代に憧れることもない。ただ、戦争や60年代を知らない記者にとって、エネルギーのすべてを自由に表現に変えられた時代性と、それを認めた寛容性や許容性が羨ましいとも感じる。