三兄弟揃って落選

尾竹国観《絵踏》 1908(明治41)年 泉屋博古館東京【通期展示】

 だが、翌年の大正2年(1913)に開かれた文展では、三兄弟揃ってまさかの落選。三兄弟の弟子たちもすべて選に洩れた。三兄弟に、何が起こったのか? その理由は当時でも様々な憶測を呼び、話題となった。

 竹破と国観は、日本革新運動を率いた岡倉天心に、横山大観らに次ぐ世代の俊英として期待され、日本美術院の研究会にも参加していた。明治41年(1908)、国観はキリシタンの絵踏を題材にした《絵踏》を描き、国画玉成会主催の日本絵画展覧会に出品。しかし、開幕日の翌日に懇親会が開かれたが、その席で国画玉成会会長の岡倉天心と国観の兄である竹坡が展覧会審査員の選び方をめぐって衝突してしまう。竹坡は国画玉成会を除名となり、国観も兄に従って脱会する。

 国観が描いた《絵踏》は、日本絵画展覧会の会場から撤去。結果、展示されたのは開催初日からのわずか4日間だけとなった。そんないわくつきの幻の絵画《絵踏》。保管していた国観の遺族が、2022年に泉屋博古館東京に寄贈。修理と表装が施され、本展でお披露目となった。

 この《絵踏》には、乳飲み子から老夫婦、武士、農民、宣教師と思われる白人など、総勢41名の人々が描かれている。その一人一人の表情の描写が実に巧みだ。ためらうように聖母子像が表された踏絵をじっと見つめる女性。彼女を取り囲む群衆は、様々な表情を浮かべている。踏絵と対峙する彼女を忌々しげに見る者、心配そうに見守る者、我関せずと目をつぶる者。作品から、その場の重く淀んだ空気が流れ出てくる。

捲土重来の勢いで爆発

 さて、画壇や日本美術界の権威を敵に回してしまった尾竹三兄弟。竹坡は美術界から権威主義を排除するべく、衆議院選挙に立候補するも落選。弟子たちが立ち上げた新しい美術グループ「八火会(後の八華会、八火社)」とともに、自らの手で展覧会を開催した。その動向は19世紀後半のパリで、美術界を牛耳っていたサロンから拒絶された若い画家たちが自身の手で展覧会を実施した「印象派」を連想させる。

「八火社展」はわずか3回と短命に終わったが、関係者から「数年来の忍黙不平がここに捲土重来の勢を以て爆発している」と絶賛された。その言葉通り、この時期の尾竹三兄弟の作品はとにかく素晴らしい。権威に対する反発と解放への思いが画面全体に宿り、すさまじいパワーを発している。

 特に、竹坡の作品が圧巻。サメ、ヒラメ、カツオ、ウミガメ、イセエビ、アンコウなど、無数の魚介類が画面を隙間なく埋め尽くした《大漁図(漁に行け)》、従来の日本画のスタイルから逸脱した前衛表現が見られる《月の潤い・太陽の熱・星の冷え》。個人的にはナビ派を思わせる平面的な色面構成がユニークな《庄屋》という作品に惹かれた。

尾竹竹坡《大漁図(漁に行け》(部分) 1920(大正9)年 個人蔵【前期展示】

 展覧会を見て、こう思わずにはいられない。もし、尾竹三兄弟が権威に潰されず、日本美術界のメインストリームになっていたら……。でも、潰されたからこそ、アナキズムを意図したかのような、時代の先を行く作品群が生まれたのかもしれない。ひとつ言いたいのは、尾竹三兄弟を埋もれたままでなく、よくぞ掘り起こしてくれたということ。「オタケ・インパクト」が開催されたことに心から感謝したい。

 

「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」
会期:開催中~2024年12月15日(日)※前期:〜11月17日(日)、後期:11月19日(火)〜12月15日(日)
会場:泉屋博古館東京
開館時間:11:00~18:00(金曜日は〜19:00)※入場は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(11月4日は開館)、11月5日(火)
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

https://sen-oku.or.jp/tokyo/