写真/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

戦略から移転を考えれば見えてくる

 10月23日・24日掲載の「東京近郊の「問題な城跡」を歩く〜八王子城」で指摘したように、八王子城にはいくつかの問題があるが、その一つが築城の理由である。

 北条氏一族の有力者であった北条氏照は滝山城を本拠としていたが、のちに八王子城を築いて移った。滝山城は多摩川北岸の丘陵上に築かれた城だったが、八王子城はそこから8キロほど南西に位置する、峻険な山城である。

八王子城は険しい山城だ

 移転の時期については、天正10年(1582)から15年(1587)の間と書いているものが多いが、天正15年頃(14〜15年)と考えて間違いない。同年(推定)3月の文書に、北条氏照の重臣である狩野宗円が八王子に在城していると書かれているし、これ以降、氏照の関係文書に八王子の地名が頻出するからだ。

 また、天正9年から10年にかけて滝山城で大がかりな普請が行われたことも、史料から判明する。竣工直後に城を移転したとは考えにくい。要するに、文書を時系列で整理すれば移転の時期が絞り込めるのであって、仮に一、二の文書について年次比定が違ったとしても、天正15年前後に移転したという大枠は動かないわけだ。

滝山城主郭の枡形虎口

 問題は、氏照がなぜ滝山城から八王子城に本拠を移したか、である。移転の理由について、永禄12年(1569)に武田信玄によって滝山城を落城寸前まで攻められたから、とか、武田軍の再侵攻に備えたもの、などと書いてあるサイトが多いが、的外れである。

 前述したように、滝山城は天正10年(1582)頃に大改修を施しているし、その直後に武田氏は滅亡する。武田領を併呑した徳川家康とは同盟を結んで、甲相国境は安定しているから、竣工したばかりの城を改修する必要がない。

滝山城の巨大な空堀

 また、滝山城が丘城だったのに対し、八王子城は本格的な山城であることから、なぜ時代に逆行するような山城に移転したのか謎だ、などと訝る人や、当時の関東の流通網や氏照領国の経済圏という観点から、説明を試みる人もあるが、いずれもまったく的外れだ。

 このような的外れな説が出てくる理由は、はっきりしている。「戦略」という観点から城を考えていないからである。また、「居城=大名の住まい・政庁」という先入観も、判断を誤らせる要素だ。戦争の時代においては、城とはまずもって軍事施設なのである。

八王子城御主殿の石積(発掘調査結果をもとに整備されたもの)

 戦略という観点から、北条領国全体の動向を俯瞰してみると、氏照が本拠を移転した理由がはっきりする。北条氏は、天正14年(1586)頃から豊臣政権との関係が悪化し、領国全体で大がかりな動員体制を敷くようになっている。当然、城の改修も各地で進められている。しかも、豊臣政権への対応では、氏照は北条家中での強硬派なのである。

 だとしたら、滝山城から八王子城への移転も、「対豊臣シフト」の一環と考えるのが、論理的帰結というものだ。戦略的状況の変化に応じて、軍隊が基地を移転・再編したり、企業が工場や営業所を移転・統廃合するのと、まったく同じ原理である。

八王子城御主殿付近の石積。城の本質は軍事要塞である

 また、丘城から山城への移転が時代に逆行するという評価も、的外れがすぎる。たしかに、戦国末期から近世初頭にかけて、大名たちは平山城や平城を居城とすることが多くなる。けれども、それは軍事理論の変化から生じたトレンドなどではない。

 統一政権(豊臣政権や徳川幕府)に従った大名たちは、政権からの指令によって動員される立場になるから、動員に即応しやすいように平野部に本拠を移しただけである。限られた兵力で敵の攻撃を防ぐ、という原理だけからすれば山城が有利なことは変わらない。

 つまり、対豊臣戦に備えた北条領国全体での戦略シフトの中で、甲斐方面からの突破に備える要塞として八王子城は選択された、というのが唯一の合理的説明なのである。

 

[参考図書] 戦略と人物から関東の戦国史を読み解く!『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。