政治家がデザインした「素」で投票先を選ぶという薄気味悪さ

 文字と異なり、身振り手振りや佇まいといったノンバーバル(非言語的な)な情報を多く反映したネット動画によって、しかし政治家たちがデザインした「素の顔」に触れながら政治家の好き嫌いや投票先を選んでいるとすれば却って薄気味悪くもある。

 そんな時代の民主主義とはいったいどのようなものだろうか。

 政治家自身が多くの情報を発信するようになったからか、「政治家の言葉」もインフレ気味というべきかずいぶん軽くなった。満を持して5度目の挑戦で総理となった石破新総裁もつい先日の自民党総裁選での主張と矛盾する発言を続けている。予算委員会は開催せず、裏金疑惑はこれ以上掘り下げないようだ。

 それでも時計の針は逆には回らない。報道の主役を担った新聞やテレビの存在感は小さくなるばかりで、日本では英語圏などと異なりネットを主戦場とする報道機関はこれまでのところほとんどといってよいほどに存在しない。

 大半のネットメディアはオピニオンか流通を担っているのであって、良質なストレートニュースの担い手という意味では甚だ心もとない。

 しかし、これからもますます政治家たちは自らの手による発信を増やしていくだろう。こうしたメディア環境のもとで政治に批判的な視点を持ち続けるにはどうすればよいだろうか。また安易な政治家の発信に懐疑の目を向け続けるにはどうすればよいか。

 問いは簡単でありながら、実践的な解決策は極めて難しい。一般には、特に筆者のようなメディア研究者の模範解答は「メディアリテラシーが重要だ」ということになるのだが、理念はさておくとして実践的には以前からかなり疑問に思っている。

 そもそも世界的なネット企業がメディアを運営し、政治家たちは職がかかっているだけにそうとうに本気である。専門家や企業が多く関わっているということは多くのコストが投じられているということでもある。

 それに対して、果たして「リテラシーの獲得」や「多様な情報源に接する」などという甚だ自己責任的なアプローチが実効的な意味を持つのかという疑問である。

 そもそもコストを投じてリテラシーを学習するインセンティブは多くの人たちにとって極めて乏しいか、体感できるリターンが明確ではない。

 では、どうすればよいのか。ひとつのヒントは「面白さ」にあるのではないかという気がしている。批判的であり、かつ面白いということである。

 今のところそれ以上に明確ではないし根拠もはっきりしないのだが、筆者自身も最近の仕事や実践を通じて試行錯誤しているところである。