帰国後に描いた“戦争画”が悲しい

「北川民次展―メキシコから日本へ」展示風景 《出征兵士》1994年 東京都現代美術館

 1936年、太平洋戦争に向かう日本へ、北川は帰国した。だが、当時の日本の社会情勢を目の当たりにして「帰国を後悔した」と語っている。「日本は戦争に必ず負ける」と周囲に漏らしたこともあったという。

《出征兵士》(1944年)は戦地へ旅立とうとする兵士と、それを見送る少年や大人たちを描いたもの。当時、政府の指針により「出征」は明るく祝祭的に描かれるべきものであったが、本作に登場する人々はみな暗く沈んだ表情をしている。特に諦めたように宙を見つめる兵士の顔が印象的。戦争に対する北川の見方が伝わる重要な作品だ。

教育者としての北川民次

 北川がメキシコから持ち帰ったものには「美術教育」もある。北川がメキシコ滞在を始めた1920年代のメキシコでは、野外美術学校が次々に設立されていた。美術を富裕層や限られた知識人から解放し、美術と民衆とのつながりを再構築し、人々の精神を豊かにしよう。北川は野外美術学校の理念に魅せられ、活動に参加。メキシコ市南部の街トラルパンや、メキシコ市から約170キロ離れたタスコの野外美術学校で指導にあたり、タスコ校では校長も務めた。

 野外美術学校の生徒は、先住民の子供たちが中心。北川にとって、自分の実感や経験を大切に感情を込めて絵を描く子供たちは先生でもあった。教え子に刺激を受けた作品として知られる《ロバ》(1928年)。北川はメキシコの生活や労働と密接に関わり、人々とともに生きる動物を愛情深く描いている。柵越しに色鮮やかな花を見つめるロバの優しいまなざしは、北川のまなざしでもあるのだろう。

 メキシコの美術教育のあり方に感動した北川は、日本でも実践を試みた。戦時中は、子供たちのために絵本出版に励んだ。代表作として、瀬戸の陶磁器ができあがる過程を追い、労働の大切さを紹介した絵本『マハフノツボ セトモノノオハナシ(魔法の壺 瀬戸物のお話)』が知られている。終戦後は名古屋の東山動物園に「名古屋動物園児童美術学校」を開校。北川は生徒に自らを“北川くん”と呼ぶようにお願いし、好きな絵を自由に描かせたという。