「スポーツそのものを語る言葉」を見つけられないまま

 その後病に倒れて監督を辞任しますが、オシムからとてつもないことを学んだ選手たちや、その後輩たち、そしてサッカーを愛する人々をよそに、フットボールを報じる者たちは、今もほとんど変わらず「気持ちと思い出と予定調和」をお願いする質問を続けています。オシムの残した宿題は放置されています。

「決勝のゴール、振り返ってみてください!」とお願いをされ、(もうそれに辟易した海外でプレーしている)選手たちはその面倒臭さに呆れて、「◯◯がスペースに最高のパス出してくれたんで、後は流し込むだけでした。次節までいい準備をしますので、応援よろしくお願いします!」という定番で、その虚しい時間を処理しています。

 オシムが残した宿題とは、「スポーツそのものを語る言葉」をどうすれば発見し続けられるのかということです。私たちは、明治近代国家出発以来、スポーツを常に「何かのための手段」とみなしてきました。スポーツは国を支える「若者の鍛錬のため」のもので、その舞台は「部活」と呼ばれる学校教育でした。

 年に数日しか休まず部活をやる若者は、陸上やベースボールや水泳「そのもの」を語る言葉をもたないまま大人になり、その心はスポーツの本質と無関係の「日本人のオリンピック物語」みたいなものに回収されます。高校野球は、補欠でもみんなのために黙々と球拾いをできるような「耐性の強い労働者を生み出すため」に利用されました。

 スポーツ新聞の見出しを見れば、スポーツそのものについて語られた記事が極少しかないことに気づきます。「父に誓った涙のK点ジャンプ!」「母子家庭の負けん気が生んだホームラン!」

 スポーツの素晴らしさとは、「眼前で、己の実感を通じて、人間の肉体が奇跡を起こす瞬間を他者と共有する」喜びです。それは、スポーツを「通じて」何かが鍛錬されることや、スポーツを「通じて」国家の威信を高めることとは、まったく無縁のものです。

 私たちは、「にわかには納得できないが、自分はたしかに信じられないものを見た」という喜びとともにスポーツを堪能し、その驚きを表現し友と分かち合うために豊穣なる言葉を生み出し、スポーツを育みたいのです。そのために必要なのは、「お願い」ではなく、「新しい言葉」なのです。

半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』(岡田憲治著、東洋経済新報社)