再婚は嘉子さんにとってプラスだった。嘉子さんは入籍から2年後にこんな短文を書いている。「私にとって三淵との結婚は思いも寄らぬものであっただけに、大事な拾い物のような気がします。断崖の端に立っているような緊張した私の心が、この頃は自分でもおかしいくらい余裕をもってきました」(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』日本評論社)

 2人は当時のミドルのカップルとしては珍しく、腕を組んで歩くこともあった。

夫の連れ子とは微妙な関係

 しかし、親子間には確執もあった。まず、嘉子さんの1人息子・芳武さん(のちに東京女子医大で寄生虫研究者)は中学2年生だったが、本人の意思で姓は和田のまま。乾太郎さんとの養子縁組は行われなかった。もっとも、父子関係は良好だった。

「芳武は、今まで母1人、子1人で気ままにやってきました。いっしょに暮らす人間が増えるのが嫌だったのでしょう」(嘉子さんの実弟・武藤輝彦さん『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千恵美、日本評論社)

朝ドラ「虎に翼」公式Xより
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 より難しかったのは乾太郎さんの子供たちと嘉子さんの関係である。長男の力さんは1985年に刊行された『三淵嘉子先生追悼文集』にこう書いている。

「ひと言でいえば猛女であった(中略)1人息子、芳武を連れて嫁して来た時、継母はさぞ敵地に乗りこむ進駐軍、といった心がまえであっただろう」(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』)

 長女の那珂さんは嘉子さんについて「ひたむきな人」と評したものの、こう続けた。

「(相談事を持ち掛けられると)親身になって相談に乗りました。ですから他人にとってはよかったでしょう。しかし、母は1人よがりの自分の正義で憤慨することがありました。身内としては、つきあいにくかったですね」(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』)

 2つの家族を1つにするのは嘉子さんでも簡単ではなかったようだ。

東京・目黒区の高層マンションのテラスで取材に応じる三淵嘉子さん(1982年6月)。三淵さんはこの2年後に亡くなった(写真:共同通信社)
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 嘉子さんは1984年、がん(骨肉腫)のため逝去した。69歳だった。遺骨は「三淵氏の墓」で乾太郎さんと一緒に眠っている。「三淵家の墓」でなく三淵さん個人の墓であるところが未入籍を選んだ寅子に近いのではないか。

 嘉子さんの遺骨は前夫・和田芳夫さんの墓にも分骨されている。これも優三が忘れられない寅子と重なる。