吉田氏は現代の大半の脚本家とはタイプが異なる。視聴率への欲を感じさせない。吉田さんを分類すると、NHK『男たちの旅路』(1976年)で障がい者行政を辛辣に批判した山田太一さんや同『夢千代日記』(1981年)で反戦と反核を訴え続けた早坂暁さんらと同じ系譜なのではないか。

 ただし、吉田氏の脚本は慎重でもある。たとえば夫婦別姓について同級生たちが寅子と航一に出した判決では「われわれの主張には法的効力はない」とわざわざ断っている。当たり前の話だ。

 それでも書いたのは少しでも誤解を避けようとしたのだろう。同級生たちによる判決内容も現実の夫婦別姓論議の中で語りつくされていることばかりで、先鋭的なものではない。

 同性カップルについても丁寧な描き方だった。たとえば寅子たちの明律大の同級生で、餓死した裁判官・花岡悟(岩田剛典)への純愛を轟が語った102回のシーンだ。

 轟は郷里の佐賀にいたころ、花岡と同じ時間を狙って登校した。花岡と会えたり、話せたりする可能性が高まるからだ。性別を問わず誰もが経験した初恋と同じであり、説得力があった。花岡と同じ明律大に入れたときはうれしかったとも。これも多くの人の片思いと同じである。

寅子のモデルの三淵さんは再婚して夫の姓に

 寅子のモデルで日本初の女性弁護士であり、2番目の女性裁判官・三淵嘉子さん。その再婚はどうだったのかというと、最高裁調査官の三淵乾太郎さんと1956年に入籍した。寅子と同じ年だ。ただドラマとは違い、嘉子さんは入籍したので、姓はそれまでの和田から三淵になった。嘉子さん41歳、乾太郎50歳のときだった。

 嘉子さんは1941年、実家の武藤家の元書生で、銀行系企業の会社員だった和田芳夫さんと入籍。1943年に長男の芳武さんが生まれるが、芳夫さんは戦地で体を壊し、1946年に長崎市の陸軍病院で病死した。

 一方、乾太郎は初代最高裁長官・三淵忠彦さんの長男。嘉子さんとの再婚前年の1955年、前妻の祥子さんを結核で亡くしたばかりだった。子供は4人。長女・那珂さんが23歳、次女・奈都さんが21歳、3女・麻都さんが18歳、長男・力さんが14歳だった。

 ドラマでは寅子が初代最高裁長官の星朋彦(平田満)の書いた民法に関する本の改定を航一と行ったことから2人は知り合ったが、嘉子さんと乾太郎さんの出会いもこれに近い。

 嘉子さんが乾太郎さんの父親で初代最高裁長官の三淵忠彦さんによる民法の本の改定を手伝ったことから、付き合いが生じた。その後、恋愛関係になった。