小山と自分の決定的な差

 4年生になると、小山が主将に就任。木佐貫洋(現・巨人スカウト)、永川勝浩(現・広島コーチ)というのちにドラフト1位でプロ入りする2人の好投手を擁する亜大は、春秋の全大会に優勝し、大学四冠制覇を成し遂げる。

 試合には出なくても、鈴木は「小山に何かあったらお前だぞ」と下級生の頃から言われていた。「準備だけは常にしていました」と言う。それはチャンスでもあるのだが、「(小山に)絶対にケガするなよ」と思っていた。身体は万全でも、「俺、ここで出て行っても、良いプレーをする自信がない」と、心の準備が伴わなかった。

「思ってはいけないことなんですが、試合に出るのが怖く感じてしまったんです。特に4年生の時は優勝がかかった大事な試合ばかりで、自分の指一本(サイン)で勝負が決まるかと思うと、『ここで(試合に)出て行っても、サインが出せるのかな?』って。小山はずっとそういう経験をしてきた。肩やバッティングだけじゃない、自分との差がわかりました。でも、その前に、小山ってケガしないんですよ。やっぱりそれが一流ってことなんだと思います」

 監督やコーチから、よく「必ず見ている人がいるぞ」と言われていた。だからブルペンで投手のボールを受けている時でも、ファールボールが飛んできたら、きちんと捕って、良いボールを投げ返す。そうしたら、スタンドに「あのキャッチャーは誰だ?」と思う人がいるかもしれない。いつもそう心掛けていた。

 4年間通算で12試合23打数5安打。ほとんどが代打やDHで、捕手としての出場はわずか2試合だった。だが、「見ている人」は確実にいた。

 4年生の夏前、ある日の練習前に、コーチから「今日は高校の先輩が見に来ているぞ」と声を掛けられた。作新学院のOBで、日本通運の神長英一監督(当時)がグラウンドを訪れていた。すぐに挨拶には行ったが、「誰を見に来たのだろう?」と思っていた。まさか自分のことだとは、まったく考えもしなかった。

 後日、神長から日本通運で採用したいと連絡が入る。鈴木は「嬉しかったけど、驚きました。どんな形でも野球を続けたいとは思っていたけど、現実的には難しいこともわかっていましたから」と言う。

 かつてはこういう控え選手でも、将来性を見込んで獲得するチームがあったが、次第に社会人野球は休廃部が相次ぎチーム数が減少。ある程度の成績を残した選手でなければ、なかなか採用もままならない時代になっていた。そんな中で鈴木が採用されたことは、単に高校の先輩後輩という縁故だけでなく、なんとか道を作ってあげたいという周囲の人たちの尽力があったことは想像がつく。

 こうして鈴木は社会人野球選手になった。