シンガポール方面で終戦を迎えた後に接収され、飛行する元第381海軍航空隊所属と推定される中島飛行機製の零戦二一型 写真/月刊丸/アフロ

(歴史ライター:西股 総生)

明治・大正期には元号を年式として使用

 旧日本海軍の主力戦闘機だった「ゼロ戦」の名は、日本人ならみな知っているだろう。では、この「ゼロ」が何を意味しているのか、ご存じだろうか? 

 「ゼロ戦」は正しくは「零式艦上戦闘機」で、略して「零戦」という。この「零」は、わかりやすくいえば兵器としての年式を指している。現代の自衛隊が使っている「一〇(ヒトマル)式戦車」などと、命名の原理としては同じだ。「一〇式戦車」は2010年に制式化された主力戦車なので、西暦の末尾2桁をとって「一〇式」と呼ぶわけだが、「零戦」が制式化されたのは1940年(昭和15)だ。では、この「零」は何か。

 旧日本軍の場合、明治・大正期には元号を年式として用いていた。明治38年に制式化された小銃だから「三八式歩兵銃」といった具合である。ところが昭和に入ると、元号でも西暦でもなく、皇紀(神武紀元)を用いるようになる。建国神話の上で、神武天皇が即位した(とされる)年を紀元とする数え方だ。

 皇紀を使うようになった背景には、もちろん国粋主義思想の抬頭という事情もあるが、もっと現実的な理由が大きい。そのまま元号を用いると、昭和の初めに制式化される兵器が「一式」「三式」となって、大正時代の旧式兵器と区別がつかなくなる。西暦を用いると、昭和13年は西暦1938年になるから「三八式」となってしまい、やはり不都合だ。

 このような事情から皇紀が用いられるようになって、「八九式戦車」や「九六式艦上戦闘機」やらが誕生していった。この方式で九七式・九八式・九九式と来たものの、次の栄えある皇紀2600年(昭和15/1940)をどうするか。

 面白いことに、ここで陸軍と海軍の考え方が分かれた。海軍は「末尾2桁」の原則に則って「零式」としたが、陸軍は「99の次は100である」という理屈から「百式」の呼称を採用した。要は、陸軍と海軍は仲が悪かったということだ。

 こうして、皇紀2600年に海軍が制式採用した艦上戦闘機が「零式艦上戦闘機」となった。略称は、文献を見る限り「零戦」と表記されているので、「れいせん」が基本で「ゼロせん」は俗称である。