筒美京平みたいな作曲家、阿久悠みたいな作詞家はもう出てこない(写真:共同通信社)筒美京平みたいな作曲家、阿久悠みたいな作詞家はもう出てこない(写真:共同通信社)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 人間は、かつて自分が生きてきた時代を懐かしみ、評価したがるものらしい。英語でも「グッド・オールド・デイズ(good old days)」という表現があるように、これは人間に一種普遍的な感情だといっていいのかもしれない。

 この感情の背後には、当然、現在自分が生きている時代への違和感ないし反感がある。つまりわたしは総体として、いまの世の中が好きではない。

 もちろん世の中はわたしのためにあるのではないから、そのことはいい。しかし時代がわたしを無視するように、わたしも時代の気に入らない部分は無視していいのである。

 なんだヒップホップやラップって? 昭和生まれのわたしなどお呼びでない現在のヒット曲に人気グループ。有象無象のユーチューバーに、食べログに、「いいね」。コスパにタイパ。ハロウィンに路上飲み。ブレイキンにスケボーにEスポーツ。

 これらはすっかり社会的には定着しているらしいが、一体なんなんだろうこれらは。じつは定着させている連中がいる。大概は金儲けが絡み、自我の膨張が絡んでいる。

 こう書けば、多くの人を無用に敵に回すことになるが、好きでないものはしかたがない。全部外国発で、恰好だけで無意味で、なによりわたしにとっておもしろくない。

世の中はいつ変わったか?

 そこで思わず出てくるのだ。昔は単純でよかったなあ、と。

 福沢諭吉は「一身にして二生を経るが如し」といった。明治維新前と後の時代を生きた自分の人生を、前生と後生になぞらえたのである。

 福沢ほどでないが、わたしにも「二生」を生きたという気がしている。前生と後生の境が必ずしも明確ではないが。

 大きくいえば、昭和64年(1989年)とそれ以後である。中程度でいえば、パソコンの普及前(1995年)とそれ以後だ。もっと小さくしかも決定的にいえば、スマートフォン前と後(2007年)である。いずれもその前後で、世の中はあきらかに変貌したように見える。

 もっともわたしは、たしかに後生で息をしてはいるが、もっぱら前生の価値観の中で生きているので、「二生」を生きているとはいえないかもしれない。