日本の存廃協議入りレベルをはるかに超える乗客の少なさ

 その鉄道はドイツ語でフィンシュガウ鉄道という。

 現地の方言ではフィンシュガー鉄道、イタリア語ではベノスタ渓谷鉄道となる。公用語が2つあるので、会社名などもドイツ語名とイタリア語名の両方がある。

 いちいち両方を併記していてはややこしいので、ドイツ語話者が多い地域のローカル線であることから、本稿では路線名は標準ドイツ語のフィンシュガウ鉄道と呼び、地名などは基本的にドイツ語で表記する。

地方鉄道ながら利用客は多い(シュランダース駅)地方鉄道ながら利用客は多い(シュランダース駅)
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 フィンシュガウ鉄道の起点となるのはフィンシュガウの入り口にあたるメランの駅である。ここから鉄道は北西側に位置するフィンシュガウの渓谷の入り口に向けて、大きく迂回してカーブを描きながら高度を稼いで、その先は谷底のエッシェ川に沿うように終点のマルスまでを走る約60kmの路線である。

 場所は現在のオーストリアとイタリアの国境、あるいはチロルの南北の境をなすアルプス山脈の主脈のすぐ南側で、3000m級の山々に囲まれた山間部である。中心をながれるエッシェ川に左右から流れ込む支流が作る扇状地が重なり合うように続き、車窓にはリンゴ畑が続く。

 沿線人口は決して多くなく、起点となるメラン市の人口が約4万5千人、路線の大半が位置するフィンシュガウ郡の人口は約3万5千人である。鉄道沿線の人口はわずか6万人程度である。

 まずは廃止から再開に至るまでの経緯を詳しく追ってみよう。

 先に述べた通り、路線の開業は1906年である。その後に第一次世界大戦があり、オーストリア=ハンガリー領だった南チロルは1918年にイタリアに占領され、1920年に正式にイタリア領となる。

 占領後はイタリア国鉄によって運営が続けられた。筆者が州の交通を管轄するSTA社(後述)に聞いたところでは、廃止直前の1990年頃の乗客は年間約10万人、一日あたりにすると約270人であったそうだ。

 列車は一日に3本で、週末はすべて運休。さきほどの輸送密度90人というのは、県の資料を参考にしつつ、乗客が平均して路線の3分の1にあたる20kmの距離を乗ったと仮定して計算したものである。

 今の日本で議論になっている輸送密度1000人よりもはるかに小さく、この程度では欧州であってもさすがに廃線になっても仕方ないレベルである。

 実際、1991年には廃線となった。廃線ののち、線路や駅舎などのインフラはしばらく放置されていたが、1999年になってイタリア国鉄から県に施設の所有権が譲渡された。

 ここまではよくあるパターンの話である。こうなると、廃線跡の線路が剥がされてサイクリングロードにでもなるのがよくあるストーリーであるが、南チロルは全く異なる方策を取った。