道兼は慕われていた?
鎌倉時代の説話集『古事談』の巻第四「頼光、頼信の無謀を制する事」には、道兼の家人で、河内源氏の祖となる源頼信が、我が君である道兼を奉じるため、道兼の兄・道隆を殺害しようしていたが、兄の源頼光に静止されたという説話が綴られている。
また、道兼の家司で、歌人の藤原相如は、道兼に関白の宣旨が下った際に、大変に喜び(『大鏡』第四巻「右大臣道兼」)、道兼が長徳元年(995)5月8日に急逝すると、相如自身も病に倒れ、道兼の御法事に立ち会えず死にゆく無念さを繰り返し口にし、5月29日、亡くなったという(『栄花物語』巻第四「みはてぬ夢」)。
これらの話が真実で、道兼は慕われていたと信じたい。
道長と仲は良かった?
最後に、道長との関係をみてみたい。
歴史物語『栄花物語』巻第四「みはてぬ夢」には、道兼と道長は互いに好意を抱いており、仲は大変に良かったことが記されている。
道長は「不吉」とは思わず道兼の世話をし、その死を非常に悲しんだという。
『栄花物語』が記すように道兼と道長の仲が本当に良かったのかは定かでないが、できるなら、ドラマで描かれたように、道兼は道長に最期まで寄り添われ、その死が孤独なものではなかったことを願うばかりである。