文=鷹橋 忍
秩父平氏の嫡流・畠山重忠
十三人の合議制のメンバーには入っていないが、今回は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の作中で、「御家人のなかで一番の凜々しさ」と称された、中川大志演じる畠山重忠を取り上げたい。
ドラマでは、「見栄えがする」という理由で源頼朝から先陣を命じられたり、凜々しい騎馬姿に沿道の女性たちが胸をときめかしたりする大変な美丈夫のうえ、音曲にも長じた人物として描かれているが、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』や軍記物などにみえる重忠は、どんな人物なのだろうか。
畠山重忠は、平良文(平将門の叔父)を祖とする秩父平氏の嫡流だ。武蔵国畠山(埼玉県深谷市畠山)を名字の地とした。
誕生は長寛2年(1164)、長寛元年(1163)生まれの北条義時より、一つ年下だ。
父親は畠山重能、母親は三浦義明の娘(孫娘とも)である。重忠は嫡子であった。
妻は、十三人の合議姓のメンバーの一人・大野泰広演じる足立遠元の娘と、北条時政の娘の二人が知られている。足立遠元の娘との間には畠山重秀が、北条時政の娘との間には畠山重保が産まれている。
大力で音曲にも長けていた
重忠が歴史の舞台に登場するのは、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵のときである。このとき、父の重能は平氏の家人として在京しており、不在であった。
そのため重忠は父に代り、平氏方として頼朝勢の追討に向かった。重忠は、頼朝の挙兵に応じた外戚にあたる三浦氏の軍勢と、由比ヶ浜(神奈川県鎌倉市)で戦い、敗れている。重忠、17歳のときのことである。
しかし、その二日後、重忠は一族の河越重頼・江戸重長らとともに、三浦氏の本拠・衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃。三浦氏の族長で、外祖父の三浦義明を死に追いやっている。これは、三浦一族の深い恨みを買うことになった。
いったんは平氏方として戦った重忠だが、石橋山の合戦での大敗後、房総半島に逃れていた頼朝が息を吹き返すと、同年10月、他の秩父平氏とともに頼朝に帰順している。
その後、相模国に入る際に、重忠は三万近くといわれる頼朝の軍勢の先陣を任された。
先陣は武士にとって、大変に名誉なことであり、これは武蔵武士団を掌握するための措置であったとみられているが、これ以後も、重忠は二度の上洛をはじめ、多くの頼朝の軍勢や行列の先陣をつとめる栄誉を授かっている。
『吾妻鏡』建保6年(1218)12月26日条によれば、頼朝は、随兵の選定について、「譜代の勇士」、「弓馬に優れた者」、「容姿の整った者」の「三徳」を条件にあげたという。先陣に何度も選ばれた重忠も、言い伝わるように武芸に長じ、恵まれた容姿の持ち主だったことをうかがわせる。
また、重忠は大力の持ち主で武勇に優れ、人柄は清廉潔白だったという。
真偽は定かでないが、一ノ谷の合戦における、いわゆる「鵯越の坂落し」で、義経軍が騎馬で急峻な崖を駆け下るなかで、重忠だけは愛馬に怪我させぬよう背負って下りたなど、その大力や、情けの深い人柄をうかがわせる逸話が残っている。
武芸だけでなく音曲にも通じており、静御前が鶴岡八幡宮で頼朝や北条政子らの前で歌舞を披露した際に、銅拍子で伴奏している(『吾妻鏡』文治2年(1186)4月8日条)。