文=鷹橋 忍
頼朝の父親の家人だった 三浦義澄
佐藤B作演じる三浦義澄と、山本耕史演じる三浦義村の父子は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に初回から登場しており、視聴者にもすっかりお馴染みである。
だが、義澄・義村父子や三浦一族の背景は、ドラマではあまり詳しく描かれていない。有名な「衣笠合戦」も、台詞での説明であった。
そこで今回は、三浦義澄・義村父子および、義澄の父・三浦義明ら三浦氏にスポットライトを当ててみたい。
まず三浦氏とは、相模国三浦郡を名字の地とする一族だ。
三浦義澄は、相模国の在庁官人で、「三浦介」を称した三浦義明の子である。義明は三浦氏の惣領であった。
源義朝(頼朝の父)は、この義明の娘を妻とし、二人の間には「鎌倉悪源太(かまくらあくげんた)」の通称で知られる源義平が生まれたと伝えられる(義平の母は遊女だったという説もある)。
横田栄司演じる和田義盛は義明の孫であり、義澄の甥にあたる。
三浦氏は河内源氏の累代の家人であり、義澄も源義朝の家人として、平治の乱(1159)に参加している。
平治の乱で義朝が敗れると、國村隼が演じた平家家人の大庭景親が勢力を拡大し、三浦氏の権限を圧迫するようになった。
三浦氏が源頼朝の挙兵に応じたのは、この苦境を脱するためとみられている。
治承4年(1180)8月、頼朝が兵を挙げると、義澄ら三浦一族は、頼朝と合流するために三浦半島を出発した。
ところが、豪雨による川の増水に見舞われ、石橋山の戦いには間に合わなかった。
周知の通り、石橋山で頼朝の軍勢は大敗北を喫する。義澄らも三浦半島に引き返すが、その途中、中川大志演じる平家方の畠山重忠軍と交戦、三浦側は多々良重春(三浦義明の孫)や郎従、畠山側は30人とも50人とも伝わる犠牲者を出し、両軍が引き上げた。
しかし、これでは終わらなかった。態勢を立て直した畠山勢に、三浦氏の本拠地・衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻められたのだ。世に有名な「衣笠合戦」である。