89歳の惣領・三浦義明の死 衣笠合戦

 義澄ら三浦氏は応戦したが、力も矢も尽き、城を捨てて落ち延びることとなった。

 このとき『吾妻鏡』では、89歳の惣領・三浦義明が義澄ら一族に、「源氏累代の家人として、源氏再興の時に巡り会えて、こんなに喜ばしいことはない。残りの僅かな命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の勲功としたいと思う。自分は城に残り、多勢に見せかけるから、おまえたちはすぐに逃げて、頼朝樣をお探ししなさい」と命じた。義澄らは涙を流して取り乱したが、義明の命に従い退却し、義明は討ち取られたと記されてる。

 涙を誘う名場面であるが、これは伝説化された義明の姿であるともいわれる。

 義澄らは、船で安房に逃れて頼朝と合流、頼朝の奇跡の復活を助けた。

 その後、義澄は平家追討でも戦功をあげ、頼朝の信頼を得た。

 勅使が頼朝を征夷大将軍に任じたことを記す任命書(除目聞書)を鎌倉に持参した際に、義澄が、これを受け取る大役に任じられていることからも、頼朝の義澄に対する信頼の厚さがうかがわれる。

 正治元年(1199)1月に頼朝が没すると、義澄は二代目の鎌倉殿となった源頼家を支える13人の宿老の一人に選ばれるも、翌正治2年(1200)1月23日、74歳で突然死した。

 義澄亡き後、三浦氏の惣領となったのは、義澄の嫡男・三浦義村である。