【ネタバレあり】畠山重忠の乱(二俣川の戦い)は、だまし討ちだった?
頼朝の御家人となった重忠は、木曾義仲や平氏軍、奥州藤原氏などと戦い、戦功をあげていった。
頼朝が没すると、御家人間での壮絶な闘争が始まった。
梶原景時が滅び、北条氏の最大のライバルであった比企氏も、「比企氏の乱」で滅亡、三代将軍・源実朝を擁立した北条時政が権力を握った。
比企氏の乱では、北条氏に積極的に協力していた重忠だが、北条時政が、幕府の基盤である武蔵国の掌握に乗り出すと、両者の間に確執が生じるようになり、畠山重忠の乱(二俣川の戦い)が勃発する。
『吾妻鏡』によると、元久元年(1204)11月、重忠の嫡子・畠山重保と、北条時政の後妻・牧の方の女婿である平賀朝雅が、酒宴の場で口論になった。
翌元久2年(1205)年6月21日には、朝雅は牧の方に「畠山一族が謀反を企んでいる」と讒訴したという。
時政と牧の方の夫妻は畠山重忠・重保の誅殺を決意、時政は北条義時と、義時の弟・北条時房に、謀反の罪で重忠を討つように命じた。
しかし、義時も時房も「重忠が謀反を起すはずがない。軽率に誅殺すると後悔する」と諫めている。
だが、帰宅した義時のもとに訪れた牧の方の使者から、「継母だから牧の方を軽んじるのか」と詰問され、義時はやむなく重忠討伐に同意し、大将として大軍を率いて出陣することとなった。
翌22日、まず畠山重保が由比ガ浜におびき寄せられ、山本耕史演じる三浦義村の軍勢に討たれた。三浦一族は族長・三浦義明を死に追いやった重忠への遺恨を忘れておらず、畠山父子の討伐に積極的だったという。
一方、重忠は、北条時政と通じていた稲毛重成(重忠の従兄弟で、時政の娘婿)から「鎌倉で軍の蜂起がある」との偽りの連絡を受けていた。
重忠が一族郎党134騎を率いて鎌倉に向かったところ、二俣川(神奈川県横浜市旭区)の付近で北条義時ら幕府軍の大軍と遭遇する。重忠は、重保が殺害されたこと、謀反人として自分に討伐軍が向けられていることを知った。
本拠地に戻り、態勢を立て直すという意見も出たが、重忠は「引き返して軍備を整えたら、謀反を認めたことになる」と退け、奮戦の末に壮烈な最期を遂げている。
重忠の率いていた軍勢の少なさが、重忠に謀反の意思などなかったことを語っていた。
なお、室町幕府の管領職を細川氏・斯波氏とともに歴任した畠山氏は、再婚した重忠夫人の子孫にあたる。