選挙には「当選できるのは選挙に立候補した人だけ」というルールがある。どんなに優秀な人がいても、立候補しなければ当選できない。候補者が定数に満たなければ選挙は行われず、無投票で当選者が決まってしまうこともある。当選した人が「不適格」だと思っても、あとの祭りだ。だからこそ、立候補した人のなかに「当選させるべきではない人」がいるかもしれないという疑いの目ですべての候補者を見る必要がある。
今、選挙の際に候補者が提出するポスターや選挙公報を鵜呑みにしてしまう有権者は多い。
そもそも選挙公報は「候補者が提出した原稿をそのまま掲載」したものだ。政策の実現可能性や事実関係を選挙管理委員会がチェックして保障しているわけではない。基本的には「候補者の言いっ放し」で、荒唐無稽な主張もそのまま掲載される。
ポスターも、候補者が見せたいものしか掲載されていない。なにしろポスターで使われる顔写真には「何カ月以内に撮影した写真を使わなければならない」という規定がない。顔写真を載せなければならないという規定もない。
取材現場でポスターのイメージを頼りに候補者を探しても、まったく見つけられない経験を私は何度もしている。ひどいときには、他人の顔写真をポスターに使って立候補する人までいる。ポスターや選挙公報が候補者の本質を伝えているとは限らないのだ。有権者が選挙への関心を失えば失うほど、政治家の劣化は進んでいく仕組みになっている。
私たちが選挙で選ぶ政治家は、この先4〜6年の任期中、私たちの代わりに政治のことを専門に担当してくれる人だ。私たちの代表ではあるが「君主」ではない。注文は大いにつけるべきだし、30秒でもいいから一度は実物を見たほうがいい。一瞬でも生身の候補者をみれば、生活者としての勘が働くからだ。
「この人になら任せられる」「困ったときに相談できる『かかりつけの政治家』として頼れる」。すべての候補者を比較検討したうえで投票先を決めれば、大きな失敗から距離を置くことができる。
選挙は「政策オリンピック」である
私が候補者全員を取材する理由には積極的なものもある。それは選挙が「政策の見本市」だからだ。投票率が50%前後の現代において、毎日政治のことを考えている人もそれほど多くない。だから日本の有権者は選挙のたびに自信がなさそうな顔で私に言う。
「私は政治に詳しくないから……」
バカを言ってはいけない。その態度が訳知り顔で中身は空っぽの政治家を生むことになる。この世に生きる人は、政治に無関心でいることはできても、政治と無関係でいることはできない。全員が政治的決定の影響を受けている。そんな世の中を生き抜いている人は、誰もが「政治のプロ」であり「社会の主人公」だ。もっと胸を張り、自信を持って政治を語っていい。
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