突然の訃報に高校野球関係者は驚きに包まれた。
1月16日、御殿場西高校(静岡)野球部監督の森下知幸さんが大動脈瘤破裂により急死した。享年62歳。地元紙などの報道では、前日までグラウンドで選手を指導し、この日の朝もいつも通り学校に出勤したが、体調不良を訴え自動車で帰宅中に発症。病院に緊急搬送されたが、手術の甲斐なく息を引き取ったという。
常葉菊川高校を率いての甲子園優勝など輝かしい実績を持つ森下監督は、教え子は言うに及ばず、多くの若手指導者から慕われる好人物でもあった。生前の氏と親交のあった記者が、知られざるエピソードを綴る。(矢崎 良一:フリージャーナリスト)
森下知幸監督といえば、知る人ぞ知る高校野球の名将だった。
その実績は、高校野球の歴史にしっかりと刻まれている。選手時代に浜松商業の主将として1978年春の選抜甲子園で優勝を果たし、監督としても甲子園で通算13勝を挙げ、2007年春には常葉菊川を優勝に導いた。選手、監督の両方で甲子園優勝を経験したのは、森下さんが史上19人目になる。
だが、そうした名誉や肩書きをひけらかさない、むしろまったく興味のない人だった。とにかく野球が好き、野球を教えることが生き甲斐、教え子たちがうまくなっていくのを見ることが喜びという、純粋な愛情にあふれた指導者だった。
私は15年ほど前、取材をきっかけにお付き合いが始まった。高校野球専門誌で「内野守備」をテーマにした企画を組むことになり、話を聞ける指導者を探していた。懇意にしていた青山学院高等部の安藤寧則監督(現・青学大監督)に相談すると、一も二もなく推薦されたのが、当時、常葉菊川を指揮していた森下監督だった。
最初に聞いた時には違和感があった。森下監督といえば常葉菊川が甲子園で見せたフルスイングと強力打線のイメージが強く、「打撃の指導者」という思い込みを持っていたからだ。しかし、じつは守備にこそ、その指導の真骨頂があった。
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