失敗したレジャー施設の跡地で「少女歌唱隊」の出し物上演
小林が最初に手掛けたのは、梅田駅―宝塚駅間にあった池田駅の周辺に住宅地を造成することだった。前述したように大阪市中心部は大気汚染や水質汚濁で住環境は劣悪だったが、郊外の池田なら空気も水もキレイで、暮らしやすい。
しかも、大阪中心部は住宅価格が高く、狭い。それだったら広くて安くて、それでいて生活環境がいい郊外の家に住んだほうがいい。そんな考えから、小林は鉄道建設と同時に池田で住宅分譲の事業を開始する。
小林のアイデアによって、住宅購入者が沿線に住み、そこから電車に乗って大阪中心部の会社や工場へと通勤するというライフスタイルが生み出されていった。箕面有馬電気軌道は住宅を販売することで利益を得たわけだが、それによって鉄道の運賃収入も増やすことができた。小林が考えた沿線に住宅地を造成するというアイデアは、鉄道会社にとって一挙両得の“おいしい事業”だった。
沿線に住宅地を造成することで通勤需要を生み出した小林だったが、それだけでは満足しなかった。なぜなら、梅田駅まで走った電車は客を降ろした後に逆方向へと走っていかなければならない。大阪市中心部に向かう利用客はいても、梅田駅から郊外へと向かう利用客はいない。
そこで、小林は逆方向の需要を生み出す方策を考える。梅田駅とは逆側の終点だった宝塚駅や箕面公園駅にレジャー施設を建設したのである。
だが、箕面公園駅の近くにオープンさせた動物園は亜熱帯に生息する動物の飼育に暖房が必要だったため、多額の光熱費負担が経営を圧迫し、短期間で閉園する。また、宝塚駅側には室内水泳場を備えた遊戯施設をオープンさせたが、当時は水着着用でも男女が同じプールで泳ぐということが憚られる風潮が強かったこともあり、室内水泳場は早々に閉鎖された。
小林は空になったプールを見てもへこたれることなく、次のアイデアを実行に移す。それが室内水泳場を劇場に改修することだった。この改修された元水泳場を使って、1913年に少女唱歌隊による歌のショーが出し物として上演された。これが宝塚歌劇団の出発点となる。
少女唱歌隊というアイデアは、日本初の百貨店でもある三越が「三越少年音楽隊」を結成してコンサートを定期的に実施していたことを参考にしている。小林はこれを模倣しつつ、独自にアレンジを加えた。三越が少年による音楽隊なら、こちらは少女による音楽隊ということをセールスポイントにして集客を図ったのである。
同年、少女唱歌隊は「宝塚少女歌劇養成会」と名称を変更し、歌劇を意識した出し物へと演目をブラッシュアップさせていく。