一度は断念した「プロ野球」参入も果たす
当初、物珍しさから少女歌劇を目当てに電車に乗って宝塚まで足を運ぶ人は多かったが、それも歳月の経過とともに飽きられていく。
そこで小林は苦境を打開するべく、大阪毎日新聞(現・毎日新聞)とタッグを組み紙面で何度も少女歌劇を取り上げてもらった。これは、現代的に表現するならタイアップということになるが、大阪毎日新聞の力も手伝って少女歌劇はじわじわと人気を上げていった。
少女歌劇の人気が上昇したことで、遊戯施設の入園料だけでなく観劇料も徴収できるようになった。観客は歌劇を見るために、運賃+入園料+観劇料を支払い、さらに飲食代やお土産代などの出費も厭わなくなった。

こうした経緯を踏まえると、小林は箕面有馬電気軌道の利用客を創造することを目的にタカラヅカを結成したことがはっきりとわかる。そして、タカラヅカによって鉄道会社は単に電車を走らせるだけではなく、沿線で多角的に事業を展開するというビジネスモデルを確立していく。
小林が鉄道の利用客創造策として考えたのはタカラヅカだけではなかった。プロ野球の球団運営も考え、関西の私鉄各社にチーム結成を呼びかけている。
大正期にプロ野球の萌芽は生まれていたが、野球場の維持・管理費や選手の給料などを支払えるような仕組みにはなっていなかった。そのため、球団の立ち上げを目指したチームが結成されても、すぐに資金的に行き詰まって解散していた。
小林は鉄道会社がチームを保有して沿線に球場を構えれば、試合開催日には多くの観戦者が鉄道を利用することになるので、鉄道が増収になり入場料収入などと合わせて選手の給料を賄うことができると考えた。
そこでプロ野球チームの「宝塚運動協会」を立ち上げたが、野球は対戦相手がいなければ試合は成立しない。結局、小林の考えに同調する私鉄は現れず、宝塚運動協会も試合の機会に恵まれなかった。
その後、宝塚運動協会は昭和恐慌の煽りを受けて解散。1934年に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が結成されると、小林も1936年に再びチームを結成してプロ野球へと参入した。再結成したプロ野球チーム(後の阪急ブレーブス)は、阪急神戸線の西宮北口駅の近くにホームスタジアムを構えた。ホームスタジアムの立地を見ても、小林が目指した「野球観戦のために電車に乗る」を具現化していることがわかるだろう。