(町田 明広:歴史学者)
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義①
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義②
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義③
事変の実行犯は田中新兵衛なのか
文久3年(1863)5月20日に勃発した朔平門外の変において、姉小路公知を暗殺した実行犯として捕縛されたのは、薩摩藩陪臣の田中新兵衛であった。事変時に遺棄された刀が、田中のものであることを否定する史料は皆無であり、長州・土佐両藩士には田中を知るものが多く、皆が田中のものと証言している事実は重い。
また、姉小路を護衛した従者中条右京は、狼籍者の一人が手疵を負ったと証言した。本件について、薩摩藩側の史料でも、田中が丁度その時期に手疵を負っており、姉小路の家来にも剣の達人がいて、狼籍者の内1人に手疵を負わせており、このことは田中が実行犯である証拠ではないかと意見する者もいると記している。当時の在京薩摩藩士である高崎正風も、一応関与を否定はしているものの、田中が「乱心」との前提で含みを残した発言をしている。
事件後に田中に会った某藩士は、田中が刀を帯びていないことを詰ると、田中は刀師に託して直していると回答したが、田中が言うところの受託の刀師はいなかったと証言している。さらに、薩摩藩士某は、田中は祇園新地の某妓楼に逗留している時、賊によって刀を盗まれており、姉小路を斬ったのもその賊に間違いなく、特にその刀を遺棄して証拠とし、罪を田中に転嫁した。田中は刀を盗まれたことを恥じ、藩風を重んじて自殺したと証言した。しかし、祇園新地に該当する妓楼は存在しないとしており、田中説を補強する。
姉小路家臣の跡見重威が中条を伴って町奉行所で検死を行ったところ、中条はまさに姉小路を襲った賊であり、まったく疑ふ余地はなしと証言した。当時も、この事実が状況証拠とされ、「実ニ田中ハ本人ナルヘシト申事ニテ候」(『忠義公史料』)と、薩摩藩史料においてもその関与に言及している。田中が実行犯であると断定しても、問題なかろう。
なお、田中の自殺の事由であるが、今後藩に甚大な迷惑をかけることを恐れ、自殺によって自らその口を封じたもので、薩摩藩の関与はなかったと考えたい。