(町田 明広:歴史学者)

◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義①
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義②
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義③
◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義④

姉小路公知の通商条約容認への変節疑惑

 文久3年(1853)5月20日、朔平門外の変が勃発し、姉小路公知が暗殺された。姉小路はなぜ殺されねばならなかったのか、今回はその理由を突き詰めてみたい。

 姉小路と言えば、即時攘夷派の中心人物であり、現行の通商条約は直ちに破棄すべきであるという立場であった。しかし、暗殺前には通商条約の容認へと変節したのではという疑念が起こっていたのだ。

『中山忠能日記』(5月9日条)によると、「姉小摂海巡検何等事有之候哉」と中山は正親町三条実愛に尋ねている(回答は「分からない」)。姉小路の出処進退の変化に、堂上において既に疑念が生じていることがうかがえる。

 中山は20日の日記には、幕府からの廷臣に対する高額な経済援助の申し出があり、三条実美と姉小路も同様に幕府に篭絡されており、誠に嘆かわしいと記載している。また、薩摩藩士の村山斉助は藤井良節宛の書簡(5月20日)の中で、三条・姉小路が幕府からの賄賂によって篭絡され、言動が穏当に変化していると伝えている。

姉小路暗殺の理由―勝海舟との邂逅

勝海舟

 文久3年4月21日、14代将軍徳川家茂は摂海(大坂湾)巡見のため、京都から大坂に下った。即時攘夷派は、そのまま家茂が江戸に戻ってしまうことを恐れ、朝廷から姉小路に沿海警備の巡見を命じて、家茂の動静を監視させることになった。

 4月23日、姉小路は長州・紀州・熊本などの諸藩志士120余人を率いて下坂した。25日朝、姉小路は軍艦奉行並の勝海舟の訪問を受け、その時に摂海警衛について質問した。さらに、海軍の必要性に関する勝の進言を十分に聴取し、午後には従士とともに幕府軍艦順動丸に乗り込み兵庫へ向かった。

 その航海中、勝は重ねて海軍設置を説いたため、姉小路は前向きとなったが、これこそまさに姉小路の変節の起点となったのだ。勝の日記によると、5月1日朝には「姉小路殿へ到り、拝謁。海軍並砲台の事を申す。且、友ケ島近傍測量の図を呈す」と、その後も勝は継続して姉小路に謁見して、海軍や海防に関して進言をしたり、測量図を見せたりしている。

 こうした勝との出会いによって、姉小路は初めて攘夷の非を悟り、これ以降「やや通商条約容認説に傾くに至」(『徳川慶喜公伝』)っている。姉小路は5月2日に帰京したが、その後、暗殺に至るまでの具体的な言動は分からない。しかし、勝の言説を重視し、即時攘夷派から後退したことは間違いなかろう。