子供の頃から歌うことが好きで地域ののど自慢コンクールに出場していた純歌は幾つもの賞を獲得、自然と歌手を目指すようになった。今回の騒動で純歌のことを“演歌歌手”と呼ぶ記事もあったが、本人は「演歌歌手ではなくポピュラーミュージックの歌手です」と自称している。
ドリフターズ加入を渋る仲本の父親を必死に口説いたいかりや長介
一方の仲本の歌の上手さも天性のものだったようだ。仲本が学生時代は進駐軍の基地でのジャズ演奏が流行っており、若者たちは音楽漬けになっていた。ジャズクラブも多く生まれ、多くのバンドマンたちがその仕事に憧れていた。そうしたバンド熱が盛り上がっている中でも、ボーカルを募集しているバンドに仲本が行けばすぐに採用されるほど魅力的な声を持っていた。
いかりやがリーダーになっていたドリフには高木ブーの紹介で加入することになったが、この時、仲本の父親が加入に対して「うん」と言わなかったのは有名なエピソードだ。靴職人の父親は無口な性格で仲本と言葉を交わすことも少なかったが、バンドマンにするために大学に行かせたワケではないと強く反対した。
誰もが大学に行く風潮のある現代の話ではなく、昭和30年代半ばのことだ。大学を出れば「末は博士か大臣か」と言われていた時代であり、父親としては大学に入った息子に将来は裕福であまり苦労をしない暮らしをしてほしいと望むのは当然だった。まだまだ日本は貧しく、高度成長が始まったばかりだった。
なんとしても仲本をメンバーに入れたかったいかりやは恵比寿の仲本の自宅に何度も足を運んで父親を説得し続けた。いかりやとしても歌の上手い仲本を逃すといいバンドができないという焦りがあったのだ。