そして「南シナ海はかつて明王朝が支配していたのに、朝貢国を諸外国に奪われた」という屈辱感と被害妄想が昂じた末に、南シナ海は「中国の庭」であったのだから、当然、中国の支配範囲という「失地意識」が芽生えた。
実にいい加減だった十一段線の“根拠”
最初に南シナ海に「線」を描いたのは、1936年、古地図学者の白眉初だった。彼は高校の地図帳を作るよう出版元から依頼されたが、近代地図は得意ではなかったため、国民政府が作成した最新版の南シナ海の地名リストを使った。それは国民政府が英語版の地図から島と暗礁の名前を中国語に翻訳しただけの「中国南海各島嶼(とうしょ)図」だった。
この地図には100以上もの島や暗礁の名前が細かく記載され、複雑に入り組んでいたことから、白眉初は高校生にもわかりやすいよう黒いペンで島や暗礁の名前をざっくり囲ってみせて、自分のアイデアとした。完成した地図は『海彊南展後之中国全図』と名付けた。その意味は、「清朝時代から南へ拡張した中国全図」というになる。換言すれば、「1936年の時点での中国最新地図である」という但し書きをつけた地図なのである。
話はまだ終わらない。白眉初の地図を見た国民政府は、学者先生のお墨付きをもらったと喜び、南シナ海に浮かぶ島や暗礁を黒いペンで囲った実線を、どういうわけか十一本の破線(「十一段線」)に書き替えて、1947年、さらに中国の最新地図を作った。
なぜ、「十一段線」だったのか。今日でも研究者の間では謎とされているが、たまたま描いたのが十一本だったというだけで、何の意味もなかったのではないかという研究者もいる。私は、「仮に想定した範囲」を示したかったのかもしれない、とも思う。国民政府が国民の期待に応えて、将来「こうなったら良いな」という希望的観測を示した表記だったのではないだろうか。