三方ヶ原の戦いで家康が社前の洞穴に潜んでいたとされる浜松八幡宮(写真:PIXTA)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第18回放送「真・三方ヶ原合戦」では、徳川軍が浜松城を出発して武田軍を追撃しようとしたが、まさかの待ち伏せ攻撃を受けて壊滅。当主の徳川家康だけは助けようと家臣たちが奮闘するなか、ある男が身代わり作戦を実行する。その見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

文献にも記述あり、「家康死亡」の誤報を広めた家臣

 今回の放送分で脚光を浴びたのが、徳川家康の家臣の一人、夏目広次である。『どうする家康』では、家康が夏目広次の名前を間違えてしまう場面が何度となくあった。SNSでは「いくらダメ当主でも、家臣の名前をあんなに呼び間違えるのはありえない」「あのコメディいるか?」といった類の批判的な声が少なくなかった。

 しかし、家康が夏目広次の名を間違えるのには理由があった。その真相が明らかになる見応えのある回だった、とエラそうに書いている私自身も「してやられた」ところがあった。併せて説明していきたい。

 前回放送分の「三方ヶ原合戦」のラストシーンは、トラウマになってもおかしくはないだろう。浜松城を素通りする武田軍を「そのままにしてはおけない」と、徳川軍が城から出て追撃したところ、行動を予見していた信玄率いる大軍が待ち伏せしていたのだ。

 この三方ヶ原合戦において、徳川軍は武田軍に対して惨敗を喫することとなった。徳川家康の率いた軍が壊滅状態になっているシーンから、今回の放送はスタートする。

 史実において、敗北が決まった頃、すでに闇が深い時間帯だったことがわかっている。逃げやすい状況だったのは、家康にとって不幸中の幸いだった。家臣たちは、なんとか当主である家康を討たれまいとしながら、浜松城への帰還を目指すことになる。

 そんななか、家康がすでに死亡したという噂も流れた。ドラマでは、知らせを受けた家康の嫡男、松平信康の動揺ぶりが描かれていたが、松平・徳川家の歴史を綴った『三河物語』の次の記述がもとになっている。

「山田平一郎(正勝)は岡崎まで逃げて行って、次郎三郎(信康)様の御前で〈家康様は戦死なさいました〉と申しあげた・・・」

 とんだお騒がせな家臣だが、誤報を垂れ流したのは、山田正勝だけではない。家康よりも先に帰った家臣たちが「家康さまは討ち死になされた」と城中に言いまわったとも、『三河物語』では書かれている。全体の士気にも大きくかかわる主君の生死について、あろうことか家臣が誤報を垂れ流していたのだから、呆れたものである。

『どうする家康』では「気弱なプリンスである家康を、頼れる家臣たちがサポートする」という場面が多く、今回の放送でも家臣たちが大活躍した。だが、文献を読み解く限りは、家臣の失態も少なからずあったようだ。