若き日の徳川家康公像(静岡県浜松市)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第15回放送「姉川でどうする!」では、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた「姉川の戦い」で家康がどのように戦に臨んだのか、信長との関係性とともに描かれた。その見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

信長に言われるがまま城を変えた理由

「引間? しかしながら、引間城はちいそうございますし、すでに見付城を大きく作り直しまして・・・」

 徳川家康の重臣から発せられた、そんなつぶやきが印象的だった。第15回放送「姉川でどうする!」では、織田信長に無理難題を押し付けられて、苦悩する家康の姿が描写された。

 冒頭のセリフは、大森南朋演じる酒井忠次のもの。切り取ったばかりの遠江を支配するため、家康は古代から遠江の中心地だった「見付」に城を築こうとすでに工事に着手していた。

 だが、信長は「遠江を抑えたければ引間(曳馬)」として、見付での築城を中止するように命じる。しかも、新しく建てる城には家康自身が入るべきだとして、岡崎城からの居城の変更まで信長に強いられることとなった──。

 ドラマでは、そんな場面が放送されたが、実際はどうだったのか。

 元亀元年(1570)6月28日、これから姉川の戦いが行われる前のタイミングで、家康は居城を岡崎城から浜松城へと移した。居城の移転自体は、前年の秋から考えていたようで、城の基礎工事に着手している。

 ただし、当初の場所は見付で、それに「待った」をかけたのは確かに信長だったらしい。戦国から江戸時代初頭の国内の政治や経済等の動きを記した『当代記』にも、「見付普請相止也、是信長異見給如此」と記載されている。

 信長が反対した理由は、天竜川の存在だ。もし見付で家康が居城を構えたならば、信玄と敵対した場合に救援に行けない。そこで信長は「居城は引間にしたほうがよい」と家康にアドバイスしたという。家康もその提案を受け入れて、今川氏の拠点だった引間城で拡張工事を行い、「浜松城」と改名している。改名の理由は、引間は馬を引く負け戦を連想させるからだったともいわれている。

浜松城

 ドラマはそんな文献での記載を踏まえたストーリー運びとなった。改名の背景についても、信長に語らせている。

 もっとも信長と家康が対等な同盟関係にあったことを踏まえると、あそこまで強硬に命じたとは考えにくいが、信長の打ち出す方向性に家康があらがいづらかったというのは、当時の信長の台頭ぶりを考えても、ありそうな話だ。