(町田 明広:歴史学者)
幕末の起点はペリー来航
嘉永6年(1853)6月3日、ペリー艦隊は浦賀に入港した。今年でちょうど、170年である。幕末がいつから始まったかについては、諸説あるものの、幕末の動乱の幕が切って落とされたのは、ペリー来航を起点としても異論はなかろう。
ペリー来航によって、教科書的に言えば、日本は砲艦外交にさらされて、なす術もなくその武力の前に沈黙し、日米和親条約を結ばざるを得なかった。これによって、日本は開国したとされている。果たして、その時点で日本は本当に開国したのだろうか。そもそも、アメリカはなぜ日本の開国を欲していたのだろうか。
今回は3回にわたって、こうした疑問に答えながら、170年前のペリー来航の意義、そして日米和親条約によって、本当に日本は開国したのかを、改めて考えてみたい。
ペリーとは何者か
最初に、日本を幕末の動乱に追い込んだマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)について、紹介しておこう。
ペリーはアメリカ海軍の軍人で、1794年4月10日、父クリストファー・レイモンドの3男として、現在のロードアイランド州ニューポートに生まれた。父は海軍大尉であり、兄弟も海軍軍人となった軍人一家であった。1809年、海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなど各地で勤務したのだ。
1833年1月、ニューヨークのブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にはアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造し、海軍大佐に昇進した。こうした功績から、1841年に同海軍工廠司令官に就任した。
ペリーは、蒸気船を主力とする海軍力の強化策を協力に推進し、さらには、士官教育の振興や灯台施設の改善などにも大いに尽力した。このように、ペリーはアメリカ海軍の近代化の基礎を築くことに貢献したのだ。
米墨戦争(1846~48)で活躍した後、1852年3月、東インド艦隊司令長官となって、日本と通商条約を結ぶことによって、我が国を開国させる使命を与えられるに至った。日本への2回の来航(1853・54)については、追々詳しく見ていきたい。
2回目の来航の帰途、ペリーは琉球王国と通商条約を調印した。その後、香港、オランダを経由して1855年1月11日、帰国した。そのわずか3年後、1858年3月4日、ニューヨークで死去した。ペリーは和親条約しか締結できなかったが、その死が、彼が目指した日米修好通商条約が締結される直前であったことは、歴史の皮肉であろうか。
なお、ペリーによる日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂主幹とする遠征記、『ペルリ提督日本遠征記』3巻(1856~1860)が刊行されている。これによって、私たちは当時の状況をアメリカ側から知ることができるのだ。