(町田 明広:歴史学者)
ペリー来航と早く帰った理由とは
嘉永6年(1853)6月3日、ペリー艦隊は浦賀に入港した。長崎への回航要求をかたくなに拒み、その上、江戸湾を北上して測量を強行するなど、示威行動を繰り返した。そのため、なす術がない幕府は9日に至り、とうとう久里浜においてペリーと会見せざるを得なくなったのだ。
ここで、「和親」と「通商」を求めるフィルモア大統領からの国書などを受け取った。しかし、この段階では一切外交交渉はなされず、ペリーは1年後の再来を予告して、早くも浦賀入港から9日後の12日には出航した。
これは1ヶ月以上の食料や水の備蓄がなかったこと、太平天国の乱(1851~1864)による中国(清)の政情不安から、居留民を保護しなければならず、軍艦を差し向ける必要があったことが大きな理由であった。ペリーの一存で、何もかも進めることは叶わなかったのだ。
また、幕府が回答までの時間を引き延ばすことが、容易に想定できた。交渉の進展がなかなか見られず、満足すべき回答がないまま長期間が経過し、結局出航せざるを得なくなることも懸念された。これによって、日本が勝利したと解釈され、今回の使命に大きな汚点を残すことが考えられたからだ。