今川・武田・北条はなぜ同盟を結んでいたのか?

 家臣たちに支えられながら、三河の平定を朝廷にも認められた家康。しかし、一つの成功は、いつでも新たな困難をもたらすもの。乱世の戦国時代は特にそうだ。

 ドラマでは、今川領に武田信玄が攻め入ってくると聞いて、家康たちは慌てふためいている。瀬名はこんな驚きのセリフを口にした。

「武田が今川領を? でも武田・今川・北条の三国は、義元公の頃から、お互いに攻め合わぬ取り決めだったはず・・・」

 同盟とは、武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意のもとに結ばれた「甲相駿三国同盟」のことである。今川の重臣である関口親永を父に持つ瀬名は、周辺国との事情もよく理解していたのだろう。

武田信玄(写真:近現代PL/アフロ)

 1552(天文21)年には今川と武田、1553(天文22)年には武田と北条、1554(天文23)年には北条と今川の婚姻が成立。同盟が完成することになった。この同盟によって、今川は西へ、北条は上野(こうづけ)あるいは下総(しまふさ)など北や東へ、武田は信濃などの北へと、3者がそれぞれ背後を気にすることなく進出できるようになった。

 また、軍事同盟は「お互いに攻めない」ということだけではなく、「要請に応じて軍事協力を惜しまない」という点でも重要だ。

 信玄といえば、ライバル上杉謙信と5回にもわたって戦った川中島合戦がよく知られている。第2次合戦時には膠着状態になったが、今川義元が仲介人を担い、両者は和睦。また合戦には今川氏も加勢している。信玄は同盟をフル活用していたようだ。

 それにもかかわらず、信玄は裏切ったことになる。同盟の背景や経緯を踏まえれば、事の大きさがよく理解できるはずだ。

『どうする家康』で、それだけのことをやってのける信玄に対して、家康や家臣たちがあれほどビビっていたのも無理はない。どの戦国大名にとっても敵に回したくない相手、それが「甲斐の虎」こと武田信玄だった。