大反対→やってくれ、変化のきっかけ
――市長就任から約1年後の2003年、富山港線のLRT化を発表しました。当時の空気感はどうでしたか。
森氏:線路を取っ払ってバスに代替するというのが一般的な考え方だったでしょう。そうなると考えていた人たちはたくさんいたと思います。
ですが、せっかくの鉄軌道をなくしてしまうと、公共交通を軸としたコンパクトな町づくりというコンセプトが崩れてしまいます。
交通の便利なところに住む人を緩やかに増やしていこうというのが、私の基本コンセプトです。中心商店街が衰退し、郊外のあちこちに大型商業施設ができる拡散型の町づくりを続けていくと、将来市民の負担はものすごく大きくなってしまいます。道路や上下水道を伸ばし、公園も増やさなければなりません。
だから、そろそろ拡散を止める。コンパクトな町にする。それは腕力で真ん中に寄せてくるということではなく、交通の利便性を高めるということで実現しようとしたのです。
私はよく「団子と串」と表現しますが、中心市街地から10キロ離れた団子でも、利便性の高い串でつながっていれば、質の高い暮らしを享受できます。
――その実現のために、鉄軌道は欠かせなかったということですね。
森氏:JRが手放すというのであれば三セクで受けるしかないと判断しました。そして、受けるからにはブラッシュアップしなければなりません。
「赤字だから質を落とす」という負のスパイラルにだけはしない、という思いでした。正のスパイラルに変えるためには、先行投資が必要です。LRT化し、便数を増やし、電停も増やさなければならないと考えました。
――空気感から察するに、反発もあったと思います。
森氏:特に車だけで生活している人は大反対でした。LRTを富山駅につなぐ軌道を敷くため、片側2車線の道路を1車線つぶしましたから。
空気が変わったきっかけは、ヨーロッパへの視察でした。
市民や議会の代表者、マスコミの記者らと一緒に10日間ほど、自費でヨーロッパへ行ったのです。ストラスブール(フランス北東部)やカールスルーエ(ドイツ南西部)、フライブルク(同)といった路面電車のある街並みをみんなで見ました。
その様子が、翌日のローカルニュースで流れるわけですね。すると「あんなにおしゃれな街並みになるなら、やってくれ」という声が、市民の中で出てきたのです。
今でも消極的な支持者が圧倒的に多いと思いますが、ゆっくりと理解が広がっていったように感じます。高齢者の事故が頻発したことも、「公共交通がある暮らしは必要だよね」という考え方への後押しになりました。
今、便数はおよそ日中15分に1本、朝夕は10分に1本です。JR時代の最後は日中1時間に1本でした。運賃は富山市全域が均一で大人210円です。
便利になったことによって、お客さんが戻ってきました。電停から直接スーパーに入れるようにして、おばあちゃんたちも乗ってくれるようになりました。
富山港線は、引き継いで開業した初年度から黒字です。民間投資が増え、富山市の人口は、自然減ながら転入超過が続いています。