桶狭間古戦場公園の今川義元と織田信長の銅像 写真/フォトライブラリー

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

変わる今川義元・氏真のイメージ(前編)はこちら

義元はなぜ織田と戦うことになったのか?

 今川義元は、永禄3年(1560)に尾張の桶狭間で織田信長と戦い、敗死してしまいます。では、義元はなぜ織田と戦うことになったのでしょう? 

 この戦いについては、これまでも多くの歴史家や作家たちがさまざまに論じてきました。中には、うがった戦略論を展開している方もありますが、本当はそれほど込み入った話ではありません。

 前回説明したように、戦国時代の前半には、今川は甲斐の武田、相模の北条と三つ巴の争いを繰りひろげていました。けれども、このままではお互いに不利だということに、三者とも気づいてゆきます。

 そこで、今川と武田、武田と北条、北条と今川が順に同盟を結んでゆき、いわゆる三国同盟が成立しました。結果として、北条は関東へ、武田は信濃へ、今川は西へ、それぞれ弱小勢力を組み敷きながら勢力を広げることができるようになりました。

 当時の三河は、松平のような弱小勢力がドングリの背比べをしていたので、彼らはほどなく今川の勢力下に組み込まれます。お隣の尾張では織田信長が力を伸ばしていましたが、かといって尾張全部を束ねきるほどではありません。

 となると尾張・三河の国境地帯にいる者たちは、織田につくか、今川につくかの選択を迫られます・・・こう考えてくると、尾張東部のどこかで今川軍と織田軍が衝突するのは、ごく自然な成りゆきだったことがわかります。

今川氏真が武田軍の侵攻に備えて築いた賤機山(しずはたやま)城 写真/西股 総生

 ところで、今川義元が公家かぶれのようにイメージされてきた理由の一つに、桶狭間の合戦のとき輿(こし)に乗っていたことがあります。でも、輿に乗っていたから公家かぶれというのは、全くの誤解です。なぜなら、義元が乗っていたのは塗輿(ぬりごし)といって、守護だけに許された格式の高い乗り物だからです。

 上杉謙信の父である長尾為景は、越後の守護代でしたが、主君にあたる守護を弑逆し、お飾りの守護を立てて越後の実権を握りました。そして、守護代の立場で国主として振る舞うため、塗輿やら毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)といった守護だけに許される待遇を得ようと、幕府にさんざん金を積んでいます。

 つまり、塗輿というのは、織田信長クラスの武将では乗りたくても乗れない代物だったわけです。現代風にたとえれば、織田の若造が軽の改造車でイキっているところに、今川の旦那は黒塗りのベンツでお出まし、といったところでしょうか。

桶狭間古戦場 写真/フォトライブラリー

 また、蹴鞠なども上流階級の社交には欠かせない素養でした。守護ともなれば、京に上ったときに社交術も心得ておく必要があるからです。今でいうなら、社長がゴルフやヴィンテージワインを嗜むようなものです。

 まあ、中にはそちらにばかりご執心な社長もいるかもしれませんが、「あの社長は経営者としても辣腕だが、ゴルフの腕もなかなかだ」という人だっていますよね。義元も、そうしたタイプだったと考えてよいでしょう。

 この認識を、先ほど説明した桶狭間合戦当時の尾張・三河国境地帯に落とし込んでみましょう。今川と織田、どちらにつくか選択を迫られている国衆たちにしてみれば、軽の改造車でイキっている若造より、黒塗りのベンツで出陣してくる太守様の方が、頼りがいがありますよね?

 ちなみに、桶狭間合戦の推移や両軍の勝因・敗因についても、いろいろな人が史料を独自に解釈して、さまざまな見解を述べています。でも、僕はこの合戦について分析しようとは思いません。いろいろな解釈・分析が次々と出てくるということは、いつまでたっても決定打が出ないということです。つまり、誰もが納得するような材料がないわけです。

 この合戦は、両軍が開けた土地で正面からぶつかりあったわけではなく、織田軍が動いているうちに今川の本陣にぶつかった、一種の不羈遭遇戦(ふきそうぐうせん)です。しかも、戦場一帯は丘陵や谷戸が錯雑した地形。だとしたら、戦いの流れや全体像を把握できた者など誰もいないはず。そんな戦いを理論的に説明しようと試みるのが、そもそも論理的ではないのです。

 僕は案外、信長のビギナーズラックのようなものではないか、と思っています。ゴルフの達者な社長を相手に、思い切りクラブを振ったらホールインワンしちゃった、みたいな(笑)。

 

[参考図書] 戦国武将たちの決断や戦いの実相を知りたい方は、西股総生著『戦国武将の現場感覚』をどうぞ(KAWADE夢文庫)。