静岡駅にある今川義元と竹千代の銅像 写真/フォトライブラリー

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

ようやく本来の姿に落ち着いた今川家

 近年の大河ドラマで、描かれ方が大きく変わってきた武将が今川義元・氏真の親子でしょう。今年の『どうする家康』でも野村萬斎が義元を、溝端淳平が氏真を、それぞれ好演しています。少し前までの歴史ドラマや映画では、義元はふんぞり返った公家かぶれの人物に、氏真は蹴鞠しか能がないお坊ちゃんとして、描かれるのが通例でした。

 なぜ、このように描かれ方が変わってきたのでしょう? 結論から申しあげると、別に最新の研究成果に基づいてイメージが修正されたわけではありません。ようやく本来の姿に落ち着いた、と言った方が正しいのです。順を追って、説明しましょう。

 もともと今川氏は足利氏の支族で、室町時代には代々、駿河の守護に任じていました。今川氏の駿河守護は、関東に対する押さえという意味合いが大きかったので、実際に関東で争乱が起きると、鎮圧軍の第一陣として出陣しています。また、同じように関東への押さえとして位置づけられていたのが、甲斐守護の武田氏でした。

静岡市にある臨済寺。今川義元があつく崇敬した寺で、幼少期の家康(竹千代)もここで学んだ 写真/西股 総生

 小田原北条氏の祖となった伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)は、最初は今川氏の武将でした。その宗瑞が南関東に勢力を築いていったのも、上記のような今川氏の立場かあったからです。つまり、幕府の意を受けた今川氏が、伊豆や相模の争乱に軍事介入すべく、宗瑞を送り込んだのが始まりでした。

 ところが、宗瑞の行動は次第に今川氏の武将という立場を逸脱してゆき、息子の氏綱の代になると「北条」を名乗って独立した大名の地位を築きました。このため、今川氏と北条氏との関係は、ややこしいものになります。さらに、武田氏も関東の情勢に密接にかかわっていたことから、今川・北条・武田の三氏は複雑な三つ巴の争いを繰りひろげるようになります。

 そんなさなかの天文5年(1536)、今川氏の当主だった氏輝と弟の彦五郎が謎の死を遂げます。背景は不明ですが、何者かによる謀殺の線が濃厚です。そして、氏輝の弟で僧となっていた栴岳承芳(せんがくじょうほう)と、玄広恵探(げんこうえたん)の二人が家督をめぐって戦うこととなりました。

 この骨肉の争いを制して家督を継いだ栴岳承芳が、還俗して今川義元となったのです。これより義元は、強敵である武田・北条と渡り合いながら、遠江・三河へと勢力を広げてゆきます。

藤枝市花倉の風景。栴岳承芳と玄広恵探は駿府の西方にある花倉を中心に戦った 写真/西股 総生

 以上のような経歴を見ても、義元が決して文弱のお坊ちゃん大名などではなかったことがわかります。実際の義元は、今川家の家格や自分のプライドの高さを、カードとして上手に使いながら、きっちり実利を引き出すリアリストだったようです。

 そんな義元が、公家かぶれのように描かれてきたのは、はっきり言って「信長の引き立て役」を割り振られたから。織田信長を主人公とした小説や映画・ドラマでは、桶狭間合戦における信長の勝利をカッコよく描きたい。そこで、義元が「大物だけど合戦は弱い」というキャラに設定されたることになりました。

 息子の氏真の場合も同様です。義元が桶狭間で討死し、三河が混乱していた頃、今川と同盟を結んでいた武田信玄は、信濃の川中島で長尾景虎(上杉謙信)とせめぎ合いを続けていました。やがて、強敵の景虎(謙信)を打ち破って北信濃に勢力を広げるのは厳しい、と判断した信玄は、信長への接近を図ります。

 氏真は、こうした信玄の動向を敏感にキャッチして警戒を強めていました。信玄の事績を記した『甲陽軍鑑』という書物も、「氏真は剛直な性格だったので、信玄がうまい話を向けても信用しなかった」と述べています。

 けれども結局、松平元康(家康)が離反し、信玄が駿河に侵攻して領地を失うことになってしまいました。そこで、のちに家康の行動を正当化するために、「氏真がボンクラで領地を維持できなかったから家康が占領したのだ」という評価がでっち上げられたのです。(つづく)

 

[参考図書] 今川・武田・北条による三つ巴の戦いについては、西股総生著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。普通の歴史書ではなかなか取り上げられない、東国武将たちの知略を尽くした戦いと人物像を知ることができます。